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銀座の鐘

タリタ・クーム

説教集

更新日:2021年08月08日

2021年8月8日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝  家庭礼拝 伝道師 藤田 由香里

マルコによる福音書5章21~24a 節、 35~43節

 「タリタ・クーム」本日の聖書箇所で、主イエスが語られた言葉は、アラム語で「少女よ、わたしはあなたに言う、起きなさい」と言う意味です。命の息吹を吹き込む言葉です。目覚めさせる言葉です。わたしたちを呼び起こして、立ち上がらせる、そのような言葉です。わたしたちも「起きなさい」という主の呼びかけを聞きます。そして、わたしが今から起き上がることができることを知ります。なぜなら、この御声の主は、わたしを立ち上がらせることがおできになるお力を 持っているからです。そして主は、ご自分が約束なさったことを誠実に、真実に成し遂げるお方です。主の「起きよ」との言葉。この言葉を聞く「わたし」は、 これから起き上がります。自分の力ではなく、神のみ力によって。

「タリタ・クーム」の言葉について考えてみましょう。「タリタ」は、「少女」の他には、「少年」「子羊」とも訳せます。杭の棒に羊を繋いでおく、閉じ込めていくと言う意味があります。その意味で未熟さや幼さを示し、成長のための導き・配慮・保護が必要な存在であると言っていいと思います。そう考えますと、私たちは誰もが羊飼い主イエスのご配慮と導き、保護を必要とする子羊であると言えるとも思うのです。一人で歩き出すと彷徨い、泉へ・青草へと導かれるお方を必要としています。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕を持って集め、子羊 をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ書40章11節)とある通りです。
 「クーム」は、アラム語もヘブライ語も同じで「起きる・立ち上がる」と言う意味です。聖書で「立ち上がる」とは、戦いにおける奮起や決起でも用いられます。また、信仰の目を覚まし続けること、神のみ前に立ち上がる礼拝者の姿でもあります。また、神の言葉はとこしえに立つ、や主が立ち上がってくださる、など、神様が永遠に固くあられることや、人の救いのために立ち上がってくださると言う時にも使います。また、預言者に向けて語られることもあります。「立て、バラクよ、聞け。ツィポルの子よ、わたしに耳を傾けよ」(民数記23章18節) その意味では、クームではなく類義語が使われますが、預言者ダニエルヘ向けられた言葉も思い起こされるでしょう。「愛されている者ダニエルよ、わたしがお前に語ろうとする言葉をよく理解せよ、そして、立ち上がれ。」(ダニエル書1 0章11節)そして、この言葉は復活の朝を示します。いずれにせよ、わたしたちが起き上がると言うのは、神の御前に、わたしたちが目を覚まし、心を高く上げ、神様を信頼し、希望を抱いているそのような姿です。神様によって、そのように起こしていただいている姿です。

 イエス様は、人々を癒し、悪霊を追放し、福音を宣べ伝えて弟子たちと共にガリラヤ伝道をなさいました。ガリラヤ湖の向こう岸のゲラサの地で悪霊追放をなさった後、再び湖を船で渡って来られました。
 湖のほとりにおられるイエス様のところに、会堂長ヤイロという人がやって来ました。イエス様を認めると、その足元にひれ伏しました。「ひれ伏す」は「倒れる」という意味の語です。神礼拝に用いられる言葉です。そして、懇願します。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってく ださい。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(マルコによる福音書5章23節)
「娘は助かり、生きる」は、「娘は救われ、命を得る」とも訳せます。「救い」と「命」は福音による救いと関わる言葉です。父親の切なる願いを聞き、イエス様は弟子たちと共にヤイロの娘のいる会堂の方へと歩いて行かれます。群集たちも一緒です。
 ここで、12年病に苦しんで来た長血の女の癒しの出来事が挟まれます。このみ言葉は、今年示された聖書日課では去る主日にお聞きした箇所です。この女性が病の中歩んだ12年、会堂長の娘はちょうど12歳で、神様から命を受けて生きてきました。この癒しの出来事においてイエス様がまだ語られているところで、使いの者たちがヤイロのところへやって来て、言いました。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(5章35節)
一筋の希望を抱いて、主イエスのところに願いに来たヤイロは、娘の死の知らせを聞いて、絶望しただろうと思います。悲しみに打ちひしがれ、その心は深くうなだれました。イエス様はその話をそばで聞いておられました。「そばで聞く」という言葉は、本人に話しかけられていないことを聞く、とか意図せず聞くという意味です。イエス様はご自身に向かって語られていない悲しみや願いをも、聞かれる方であります。イエス様はヤイロに言われました。「恐れることはない。あなたはただ信じなさい」(5章36節)絶望の中にいるヤイロに、しかしイエス様は、「恐れなくていい。ただ信じなさい」と言われました。
 そして、イエス様は、山上の変貌や、ゲツセマネの祈りの時も連れて行った三人弟子ペテロ・ヤコブ・ヨハネを連れて会堂長の家に行きました。家の中では、人々が大声で泣いていました。しかしイエス様は彼らに言われます。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(5章39節)その言葉を聞いて人々は嘲笑います。
 イエス様は娘の両親と三人の弟子だけを連れ、他の皆を外に出して、子供のいる部屋に行かれます。そして、子供の手を取って、言われました。

 「タリタ・クーム」少女は起き上がりました。歩き出しました。

 少女は、主のお力によって起き上がることができました。また、本日の場面で、もう一人起き上がる必要があった人物、それは悲しみに打たれ・うなだれていたヤイロです。ヤイロの名前は、ヘブライ語で「彼は起き上がる」「彼は光り輝く」という意味です。イザヤ書61章「起きよ。光を放て」とのみ言葉が浮かびます。絶望・失意の中にいたヤイロに、イエス様は、「恐れることはない。ただ信 じなさい。」と言われました。何も恐れなくていい。あなたの悲しみは、神が知り、神が贖ってくださる。だから、ただ神を信じなさい。イエス様を信じることで、ヤイロは起き上がることができました。うなだれていた顔も、心も上へ本当の意味で上げることができました。なぜなら、ヤイロが信じる主イエスには、彼を救うお力があるからです。主イエスには、ヤイロを起き上がらせるお力があります。それを、主は真実をもって成し遂げられます。少女も、ヤイロも、主イエスが知っていてくださり、起き上がるようにとの神の真実なみ声を聞くのです。主が、そこに新たな歌を与えてくださるのです。

 この時、私たちは、主イエスの復活に心を向けます。永遠の命・復活の命の初穂となってくださった主イエスによって、また私たちも復活の命を与えられる希望をいただいているのです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(ヨハネの黙示録21:4)復活の主は、いつくしみ深い眼差しで、わたしたちに語られます。「恐れるな。あなたはわたしをただ信じなさい」キリストと 共に復活する命を与えられています。主が私たちのためにおかかりくださった十字架を見上げて。主が再びおいでになる時を見上げて。わたしたちは、ただ神のみ力によって起き上がることができます。

 「タリタ・クーム」「起きよ。光を放て」との主のみ声により立ち上がらせていただくわたしたちは、信仰の喜びに生きます。主イエス・キリストを世にあって証しする一人ひとりです。主イエスの招きにお答えし、立ち上がりましょう。主にあって喜び、祈り、力強く礼拝しましょう。

祈り
 天の父なる神さま、「起きよ」とのみ言葉に、わたしたちは力をいただきま す。神様のみ言葉は、わたしたちにいつも勇気と平安を与えてくださいます。わたしたちが日々の生活の中で、信仰の目を覚まして歩めますようお導き下さい。主に望みを置くものは、決して疲れることがないとの言葉を深く留めます。信仰の兄弟姉妹とともに、主の前に起き上がり、主を喜び証しする群れとなさせてください。主イエスの御名によって祈ります。

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