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銀座の鐘

主のお働きを知る

説教集

更新日:2021年08月22日

2021年8月22日(日)聖霊降臨後第13主日 銀座教会 家庭礼拝 伝道師 藤田 健太

マルコによる福音書6章30~44節

 私たちは日曜日を「主日」あるいは「主の日」と呼びます。何を今更と思われるかもしれませんが、これは大切なことです。私たちがこの日を「主の日」として、他の日から特別切り離す理由は何でしょうか。それは私たちがその日、神様を知るためです。「主の日」は神様を知ることができる日、もっと正確に言えば、神さまを知らされる日、神様がご自分をわたしたちに明かしてくださる日です。
 「主の日」のルーツとして、聖書の出来事に即して辿れば、まず、神様の創造の御業があります。神様ご自身が世界をお造りになった「七日目」に「ご自分の仕事を離れ、 安息なさった」とあります。それからイスラエルの民たちによる「安息日」の礼拝が続きます。安息日を基点とした諸々の祭りからなるイスラエルの祭儀の歴史があります。聖書に記されたそれらすべての出来事の目標は、主イエス・キリストの「復活」でした。 主のご復活を信じた初代教会はイスラエルの祭儀の歴史から日曜日を切り離し「主の日」の礼拝を守り始めます。私たちの礼拝も復活の主を信じる信仰によってささげられます。主の日に、私たちに知らされる神様とは、十字架に付き、3日目に復活し、罪に勝利してくださった御方です。イスラエルが安息日に捧げた動物の犠牲も捧げなくなりました。主ご自身がその身を神様の捧げものとしてくださいました。安息日には神殿で祭司が捧げものをささげますが、「主の日」の祭司は主イエス御自身です。主がこの日、神様のみ言葉を語られ、神様の創造の業を記念し、十字架と復活の出来事を通して、私たちに赦しを与えてくださっていることを知らされたいと願います。
 私たちが日曜日に教会に戻って来るのと丁度同じように、遣わされていた「使徒たち」は主のもとに帰ってきます。実はマルコによる福音書では「使徒」という言葉が使われるのはここだけです。さらに、この箇所は6章の最初にある、「十二人の派遣」を受けていると考えられますが、十二人は返ってくるときには「使徒」としてイエスのもとに集まって来るのです。そして、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」と言うのです。あたかも「十二人」が旅先で「使徒」として成長して帰って来たかのような描かれ方です。「使徒」という言葉には、神様から託された特別な使命を携えた人たちのニュアンスがあります。いわば役職の違いなので、使徒の方が十二人よりも「偉い」わけではないのです。けれども、そこには、明らかな使命の自覚があったのだろうと推測します。私たちは 1 週間の生活の中で様々な出来事に直面します。劇的な出来事が無くても、様々なことを思い巡らします。宗教改革者の職制理解に従えば、「使徒」 は受け継がれることの無い一過性の役職です。私たち一人ひとりの生涯にも神様から指し示されているミッションがあることに気づかされます。それは私たちが自分の好みや 自分の適性に照らして決めることではありません。主ご自身がご自分の目的に照らしてお授けくださいます。そのような使徒たちを主は主日の安息によって労らってくださいます。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」この言葉には主の心からのご配慮があると思います。なぜなら、福音書の中では、主ご自身が「人里離れた所へ行って」、静かに祈るお姿が度々描かれるからです。主が人里離れた所へ行かれるのは「試みを受ける時」と「ひとり祈る時」のいずれかでした。使徒たちは主と同じ安息に招かれたのです。「舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った」とあります。
 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町から一斉に駆けつけ、彼らより先にその場所に着いてしまいました。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、「飼い主のいない羊」のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められたとあります。予期せぬ仕事が舞い込んで、主日の礼拝に行けなくなったようなものでしょうか。しかし、ここでは、主イエス御自身が「いろいろと教え始められた」とあります。使徒たちが旅先で「教え」たように、主イエス御自身が「教え始め た」とあります。私たちの使命を率先して担ってくださるのは主ご自身であることを知らされます。使徒たちは主の姿に自分たちの働きの最大の実りを見たことと思います。 そこに、わたしたちの礼拝の本質があります。使徒は主ご自身の働きを知ることを得たのです。それ以降の物語の中で使徒には一度も言及されません。
  随分時が経ちまして、今度は「弟子たち」がイエスのそばに来て言いました。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」「十二人」に続き、「使徒」に続き、今度は「弟子たち」が登場します。弟子たちは、彼らなりの配慮に基づく提案をしましたが、主のお返事は予想外の内容でした。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」弟子たちは最初、自分たちが人里までわざわざ下って、「二百デナリオンものパン」を買ってこなければいけないのかと思ったのです。実際、そうとしか考えられない状況だったと思います。しかし、主の御考えは異なりました。「パンは幾つあるのか。見てきなさい。」五つのパンと二匹の魚だけが手元にありました。百人、五十人ずつのまとまりになってその場に腰を下ろしました。主は五つのパンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配されました。「すべての人が食べて満足した」とあります。もちろん、弟子たちもそうでしょう。しかも、聖書は、念を押すように、「パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠が一杯になった」、「パンを食べた人は男が五千人であった」と告げます。弟子たちは自らの手で配分したパンが一向に無くならないという不思議な体験をしました。主に仕えるお仕事とはそのようなものであると告げているのです。私たちが乏しい力と適正で何事かを成そうと試みても、すぐに底を尽きてしまいます。しかし、主の御心ならば、それは成るとされます。使徒たちと弟子たちとは「主の働きを成す者」である点で本質的に何も違わないのです。ご自身が働かれる主の働きを通して、主の働きを成すのです。そこに事は成されると言うのです。
 本日の聖書の箇所は、旧約聖書の幾つかの詩編を思い起させます。福音書記者は、実際に幾つかの詩編のみ言葉を頭に思い浮かべて、この箇所を編んだのかと思われるほどです。はじめに、まず、詩編 104 編をご紹介しましょう。「彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて“食べ物”をくださるのを待っている。あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。」(104編27-30節) あるいは、145 編のこんな言葉が思い浮かびました。「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起してくださいます。ものみながあなたに目を注いで待ち望むと あなたは時に応じて”食べ物”をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き 望みを満足させてくださいます。」(145 編 14-16 節)2つの詩はいずれも「神の国」、すなわち、神さまの御支配を讃美する歌です。そこでは主ご自身がお造りになったすべての生き物と、自らの手でパンを得ることのできない弱い者たちを養ってくださることが歌われます。主ご自身がパンをお分かちくださる本日の箇所と大 変よく似ていると思います。それから、何と言っても、詩編 23 編にある次のみ言葉です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」-それぞれの組に分けて、青草の上に座らせるようお命じになった本日の聖書の箇所とイメージが重なり合います。 使徒たちの安息は台無しになったわけではなかったと思います。主が青草の原に連れて来てくださり、御自身の働きを通して、使徒たちが旅先で成した神様の御業をそこではっきりと確認する機会を与えてくださったのではないでしょうか。弟子たちもまた、自らの働きを通して、主ご自身の働きに与る得がたい体験をそこで得ました。
「主の日」の礼拝は私たちに神様ご自身の働きを知らせます。私たちの安息は神様の お働きの上に与えられているのです。神様は私たちの働きを通して、ご自身の御心を成してくださいます。主と共にある安息が私たちのあらゆる生活領域に広がっていることを覚え、1週間の大切な務めに遣わされてまいりましょう。

祈祷
 主よ、主日の礼拝を通して、あなたは私たちにご自身を知らせてくださいます。私たちのとこ しえの安息があなたによって立てられていることに感謝いたします。また、私たちの働あらゆる きが主の安息の内にあることも感謝いたします。私たちの働きを通して良き御心を実現してくだ さる神様に信頼しつつ、この1週間も、神様と人々と共に歩めますようにお導きください。私たちの歩みが神様の御国の調べを伝える力強い伝道の歩みとなりますように。 リストの御名によって祈り上げます。アーメン。

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