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銀座の鐘

「恐れることはない」

説教集

更新日:2021年08月29日

2021年8月29日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝  家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マルコによる福音書6章45~52節

 マルコによる福音書を読み進めています。本日読みます聖句の直前には、主イエス
が弟子たちに「しばらく休みなさい」と休息を与えようとしたことが記されています。 しかし、飼い主がいない羊のような群衆を深く憐れみ、休息を返上して「いろいろと教え始めた」ことが記されています。主イエスが教えて時間がたち、皆お腹がすいてきました。主イエスは弟子たちに対して「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と命じられました。このご命令のまえにたじろぐ弟子たちがいます。主イエスは、五つのパンと二匹の魚を手に取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに配らせました。魚も皆に分配しました。主イエスの教えと祈りを通して五千人以上の者が空腹を満たしました。弟子たちは、主イエスの祈りと御業に包まれました。
 本日与えられた聖書の御言葉は、ガリラヤ湖が舞台です。弟子たちはガリラヤ湖を 舟で向こう岸へ向かって進んでいます。しかし、逆風によって夜明けまでこぎ悩んで いました。夜明け頃、主イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通 り過ぎようとされたと記されています。弟子たちは湖上を歩く主イエスを見て、幽霊 だと思い、大声で叫びました。舟に乗っている弟子たちはおびえていました。そして、 通り過ぎようとされた主イエスの声を聞きます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」主イエスは湖上から弟子たちの舟に乗り込まれました。そして、52 節、 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからと記されています。
 パンの出来事を理解するとはどういうことでしょうか。私たちもパンの出来事を理 解できずに弟子たちと同じように信仰生活をしているのではないかと心配になります。パンの出来事を理解して信仰生活を送りたいと思います。パンの出来事を理解で きないと心が鈍くなったままだからです。
 「鈍い」とは、鋭いの反対語です。動きがのろいこと、反応が遅いこと、鈍感、無 神経という意味があります。心が鈍いとは、心の反応が遅いと指摘されているのです。 逆風で一昼夜舟をこいでもこいでも、進まないのです。この舟には主イエスは乗っていません。強風吹き荒れる湖の湖上を歩く主イエスを見て幽霊だと思い込み、主イエスだとわからずにおびえる弟子たちに同情します。仕方ないと思います。もし私が弟子たちと同舟していたら、湖上を歩く人が主イエスのお姿であると確認できたかどうか、主イエスを見て安心したかどうかと問われれば、声を出しておびえたに違いないと答えざるを得ません。せいぜい、硬直して呆然とするのが関の山ではないかと思います。皆さんはいかがでしょうか。湖上を歩く主イエス、強風の前になすすべのない舟から主イエスを見て安心出来ると言える人はいるでしょうか。
 心が鈍いという言葉で主イエスは私たちに何を告げているのでしょうか。私たちは、 どんなに頑張っても鈍い心のままです、と開き直ってはならないと思います。主イエスの御声を聞いた者として、鈍い心を少しでも研ぎ澄ませて鋭い心へ向かいたいと思うのです。そのためにも、鈍い心とはどういう心なのか理解したいと思うのです。
 ガリラヤ湖において逆風に悩まされる舟の姿は、教会の姿を現しています。代々の 教会は、嵐の中の舟として自らを見てきました。時代の嵐の中で、代々の教会は鈍い 心を経験してきました。戦時中の教会は、心を鈍くしなければ、乗り越えられなかっ たとも言えるのではないかと思います。時の国家権力に対して、鋭い心で反応し、殉 教の死を遂げた人々も少なくありません。教会の将来においても、鈍い心の方がよい
と考えてしまいそうです。しかし、そうではないと思うのです。
 45節に記されているとおり、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」たのです。私たちの信仰生活は、主イエスが弟子たちに舟に乗ることを強いたように、主イエスの ご命令からはじまっているのです。教会が嵐を経験する時、私たち人間の未熟さだけ でなく、主が強いて舟に乗せたことを第一に受け止めたいと思います。混乱する教会 から逃れなければならない場合もあります。別の舟に乗り換えることもあるでしょう。 しかし、主イエスは教会という舟に私たちを強いて乗せるお方であるということです。教会にとどまることをしっかり受け止めたいと思うのです。
 次に、主イエスのご計画は、その舟に乗船しないことです。マルコによる福音書4 章35節以下では、ガリラヤ湖で突風によって浸水を経験した舟には主イエスが乗船し ていました。しかし、6章の本日の聖句では、主イエスは舟に乗っていないのです。主イエスは舟の中には乗らず、あえて弟子たちだけにしたのです。
 代々の教会は、主イエス不在の経験を通して学びました。主イエスが不在であるゆ えに、人間中心になり、時の指導者の声によって揺さぶられました。教会が経験した 紛争の時、目に見えない主イエスを見いだす信仰訓練の時であったと思います。
 鈍い心とは、一人一人の信仰者の心のあり方という側面と同時に心が鈍くなり病む 教会の側面があると思います。50節の「わたしだ」は、私たちの鈍い心を目覚めさせ る言葉です。「わたしだ」とは、飼い主のいない羊のような群衆に教えていた主イエ ス、パンと魚を祝福して祈った主イエス、五千人以上の人々が満たされた時に共にお られた救い主主イエスを想起させる言葉です。主イエスはキリストであると信仰を告 白する教会が鈍い心から主イエスを鮮やかに想起し、主イエスを見るのです。
このお方が見えなくなり、幽霊に見えてしまうのが鈍い心です。救い主が見えない心が鈍い心です。主イエスに強いられて、愛のご命令で乗った舟であることを忘れることも鈍い心です。そして、舟の中で主イエスが不在であるとおびえる事も鈍い心なのです。
 弟子たちを強いて舟に乗せた主イエスは、どこにおられるのでしょうか。主イエス は群衆を解散させて、46節、祈るために山へ行かれたと記されています。舟に乗せら れた弟子たちは、祈るために山に行くことを伝えられていたかどうかわかりません。 しかし、私たちは、この御言葉を通して、鈍い心を研ぎ澄ませる事が出来るのです。 それは、激しい嵐や風によってこぎ進めることが出来ない時、叫びたくなるとき、命 の危険を感じるとき、主イエスを発見することが出来るのです。弟子たちのために祈 る主イエスを思い起こすことです。ひとたび、主イエスが幽霊に見えてしまうかもしれません。おびえて大声を出してしまうかもしれません。しかし、その後でもよいの です。主イエスは私たちが強風に遭う前から山でわたしのために祈っておられること を思い出すのです。祈る主イエスを思い起こすことが信仰です。私たちの教会のため に祈っておられることは、鈍い心では気付けませんし、思い起こすことが出来ません。 しかし、山で祈る主イエスのお姿を思い起こすことによって、教会はキリストの教会になるのです。キリストが頭である教会は鈍い心から研ぎ澄まされた心へ導かれるのです。これが教会の信仰です。私たちの信仰の中心に祈る主イエスのお姿を刻み込み たいと願います。
 子供の頃、父の書斎に掛けられていた祈るキリストの聖画がありました。大きな岩 の上にキリストが両手を組んで置き、天を見上げて跪き祈る姿勢が描かれていました。 主イエスは 12弟子を選ぶときも徹夜の祈りをささげました。十字架に進む直前まで祈られました。本日の聖句においても山で祈られています。私たちも教会も私たちの力 ではなくキリストの祈りに支えられているのです。私たちの鈍い心は、祈るキリストを思い起こすたびに研ぎ澄まされていくのです。現代の教会において、私たちがどこにいても、祈るキリストを思い起こすことによって、霊的に支えられて、鈍い心から主を呼ぶ心へと研ぎ澄まされていくのです。
 ルカによる福音書 22 章 32 節「わたしはあなたのために、信仰が無くならないよう に祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」御言 葉に感謝して祈りましょう。

 天の父なる神さま。私たちがおびえるとき、鈍い心で自分の事しか考えられないと き、祈る主イエスのお姿を思い起こさせてください。キリストが祈っておられること を教会の土台として、前進できますようにお導きください。主イエス・キリストの御 名によって祈ります。 アーメン

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