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銀座の鐘

「変わらぬ愛」

説教集

更新日:2019年12月02日

2013年1月6日 新年夕礼拝:伊藤 大輔 牧師

マタイによる福音書 20章1-16節

新しい年を迎えました。新年のこの時に、私たちは何を信じているのか。私たちの基本を改めて聖書から聞こうと思います。

本日、読んだ聖書は主イエスがなさった譬え話です。これは、いたって単純です。ぶどう園の主人の話しです。ぶどうの収穫を迎えた朝に、主人は働き手を求めて出かけます。一日一デナリオンの賃金で労働者を募ります。ぶどうの収穫は一日が勝負です。その日に刈り入れないと使い物になりません。主人は働き手を求めて、昼にも、三時にも、夕方五時になっても働き手を求めて行きます。

夕方の六時に収穫が終わりました。主人は、一日の賃金を支払うように、監督に命じます。一番最後に来たものから、順番に賃金が支払われていきます。一デナリオンが支払われます。それを見ていた朝から働いてきた者は、心の中で期待しました。最後の一時間の者にも一デナリオンが支払われている。朝から働いた私たちが同じ賃金のはずがない。私たちはきっと多くもらえると。ところが、朝一番の者たちにも支払われたのは一デナリオンでした。彼等は主人に対して文句を言います。「何故、一時間しか働かない者と、一日中汗を流した者が同じ扱いなのか」と。これに対して主人は答えます。「わたしは不当なことは何ひとつしていない。最後の者にも同じようにしてやりたいのだ。わたしの気前のよさを妬むのか」と。

この譬えはとても分かりやすく、単純なものです。主人は当然、神様を連想させる役割でしょう。ですから、神様とは、最後の者にも同じようになさる寛大な方だというメッセージを読みとるのは自然な解釈だと思います。

しかし、私たちは、どこか腑に落ちないものも抱えているのではないでしょうか。朝、早くから一日中働いた労働者。この者の訴えにどこか共感するものがあるのではないでしょうか。

この譬え話しを聞いた者が「洗礼を受けるのなら、死の間際が良い」との思いに至った、とはよく聞く解釈の一例です。「若い時に洗礼を受けて神の子とされても、どうせ人生の中で何度となく罪を犯し、失敗をする。その度に、神様に謝り、人生を後悔するのはごめんだ。どうせ同じ恵みをいただくのなら、神様を知らないふりをして好き勝手やって、今はの際で信仰を言い表すことが賢い生き方ではないか」というものです。

この解釈が小賢しいものであることを私たちは感覚的に持ちますが、どこかで、そういう生き方の方が利口なのではないかと呟く自分もいるのではないでしょうか。

いつ始めても同じ評価。これが、このたとえ話の持っているメッセージであるならば、労働時間は短い方が得になります。神様に承認してもらう時間は、短いほど失敗はなく、高い評価を得ることになるでしょう。最後の方が得だということです。

この譬えからそういう思いにいたるのも不思議でありません。そして、この譬えを語った主イエスも、これを書き留めた福音書記者も、その様な解釈が生まれることは当然予期していたでしょう。そういうものが生まれることを充分、承知の上で、この譬えは語られ、語り伝えられてきた。ここには一体どういう意味があるでしょうか。

譬えの最初の言葉です。「天の国は次のようにたとえられる」。ここでの話しは「天の国」についてであるということです。それは言い換えれば、この地上のこと、私たちの生活のことを語っているのではない、ということでもあります。私たちの生活のことを語っているのであれば、「最後の者が得」という結論にいたります。ところが、この譬えは前提から違います。この世界の事柄ではなく、天の国について語るというのです。語られているのは、生活のこと、私たちのことではありません。語られているのは「神様のこと」です。だとするならば、この譬えをどのように聞くべきなのでしょうか。

人間の側からすれば、最初に主人に出会った者も、一日の終わりに出会った者も同じ扱いにするとはひどいことだ、となります。しかし、これはあくまでも人の側からの感想です。

私たちは、神様との出会い、信仰を持った時についておおよそ記憶をしているでしょう。劇的な経験があった方は鮮明でありましょうし、そういうものがない方でも、「わたしの信仰は、あそこから始まった」、そういう自分についての理解を持っています。しかし、これは事実なのでしょうか。記憶違いという意味ではありません。私たちは、自分の人生の確認を自分の知っている通りのものだと思っています。しかし、それが私の人生のすべてなのでしょうか。

聖書には、神様との出会いについて語られた言葉が少なからずあります。

パウロはガラテヤ書において「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と言っています。これはいわゆる「事実」としてはおかしな報告です。母親の胎の中の記憶があるはずがない。神様との出会いは自覚的なものであるはずだから、幼少期以後のものであるはずだ、との批判も成り立つでしょう。更にエレミアは「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた」と記します。こうなると生物として生成される前ということになります。

パウロもエレミアも自分の記憶や体験に頼ってはいません。人の側からの思いで神様との関係を語ってはいません。私が神様を知った。神様を信じた。それは私の「思い」でしかない。私の「思い」を包みこんでいる本当の現実は神様がどうしたかだ。神様は私が信じようが信じまいが、それ以前に私が誕生する前から私のことを知っておられ、数えていて下さる。私とは何者か。私は、私がいない時から、神様に愛されている。

「いる」「いない」を超えている。これは永遠ということです。私たちは永遠に神様に愛されているのです。まだいなかった時も、そしてやがていなくなった後も私たちは神様に愛されている。「いる」「いない」が問題ではありません。いてもいなくても愛される。永遠に愛される者。永遠に愛される私たちは永遠の命をいただいている者だということです。

ぶどう園の主人は、神様は、いつ出会おうが、否、出会おうが、出会わなかろうが、私たちを愛している。愛は出会いの時期や費やした時間に支配されるものではありません。増えたり減ったりするものでもありません。愛は神のものです。私たちはその愛におおわれています。

何を信じるのか。愛を信じましょう。変わることのない主の愛が今年も私たちを支え、導いているのですから。