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銀座の鐘

いなごの大群と三百人

説教集

更新日:2022年09月10日

2022年9月11日(日)聖霊降臨後第14主日 主日礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花

士師記7章1~7節

 私たちは四月から礼拝において創世記、出エジプト記、ヨシュア記を順番に読み進めてまいりました。出エジプト記では、イスラエルの民は指導者モーセに率いられて、エジプトから脱出後、荒れ野での生活をへて、約束の地カナンへと入ることとなりました。しかし、モーセは約束の地を目前にして死を迎えましたので、モーセに代わる指導者としてヨシュアが立てられました。
 ヨシュア記24章で、指導者ヨシュアはイスラエルの民と契約を結びます。ヨシュアは民に対して、主なる神様によって約束の地カナンまで導かれた民の歴史を語り、そして、14節で「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」と言いました。民は「主に仕えます」と答えますが、ヨシュアはこのように民に言いました。
あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる」(ヨシュア記24章19節以下)。このシケム契約の後、ヨシュアは死に、ヨシュア記は終わります。
 ヨシュア記に続く士師記では、ヨシュアやイスラエルの大いなる御業を見た長老たちの死後、イスラエルの人々はヨシュアが言ったとおり、主の目に悪とされることを行い、神を捨て、カナンの土着信仰であったバアルなどの異教の神々に仕えるようになりました。
 シケム契約を忘れて他の神々に仕えるイスラエルの民に主は怒り、民を敵の手に渡されて、略奪されるがままにします。しかし、主はイスラエルの民が圧迫され、迫害されてうめく彼らの姿を哀れに思われ、モーセやヨシュアに続く指導者として士師と呼ばれる人たちを立て、士師と共に敵の手からイスラエルの民を救って下さいました(士師記2章18節)。
 しかし、民は士師が死ぬと、すぐさま救われた出来事など忘れて、主を捨て、また異教の神々を崇拝するようになってしまいます。
 私たちは士師記を読むとき、イスラエルの民が主を捨て他の神を崇拝し、主が怒り、民を敵の手に渡されて、民が苦しみの中で主に助けを求めて叫ぶと、主が士師を立てて救ってくださるというパターンが繰り返されるのを何度も見ることができます。
 そして、本日私たちに与えられました聖書箇所に登場する士師、ギデオンもこの士師記において繰り返されるパターンによって登場します。それは小見出しに「ギデオン」とつけられている士師記6章1節において「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された」と書かれている通り、まず、民が主に背き、主の怒りによってミディアン人の手に渡されます。
 士師記6章では詳細にミディアン人によってどのようにイスラエルの民が苦しめられていたかを見ることかできます。6章4節以下に「彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊もろばも何も残さなかった。彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわった。」と書かれているとおりです。
 いなごの大群のようなミディアン人によって甚だしく衰えてしまったイスラエルの人々は 主に助けを求めて叫びました。すると、主は預言者を遣わして「わたしがあなたたちの 神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に従わなかった」(6章10節)と民に語りました。預言者が告げたとおり、イスラエルの民がミディアン人による苦しみの中にいるのは、民が主の目に悪であることを行い、主に従わなかったからです。それにも関わらず、彼らは苦しみの中に置かれたときは主に向かって叫び声をあげるのです。なんと自分勝手な民でしょうか。
 しかし、主なる神様はこのような自分勝手なイスラエルの民をお見捨てになられないのです。「あなたたちはわたしの声に従わなかった」と預言者を通して告げた後ですら、主の御使いを送り、士師としてギデオンを立てられるのです。
 6章12節で主の御使いがギデオンの前に現れます。御使いは「勇者よ、主はあなたと共におられます。」と言いますが、主の御使いがギデオンの前に現れたとき、彼はミディアン人を恐れてこそこそと酒ぶねの中で小麦を打っていたと書かれています。このことから、彼がまったく勇者からかけ離れた人物であったことが伺えます。それだけではなく、ギデオンの発言からも私たちは彼が勇者にふさわしい身分ではないことが分かります。それは15節で「わたしの一族はマナセ族の中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」と書かれている通りです。
 しかし、このように「自分にはできません」と答えるギデオンに対して、主は16節において、「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」とおっしゃるのです。
 「わたしがあなたと共にいる」、これは出エジプト記3章において、主がモーセと出会われ、モーセを指導者として選ばれたモーセの召命の記事を私たちに思い起こさせます。このことからも、ギデオンが指導者モーセ、ヨシュアに続く者として立てられていることが分かります。
 このようにして召命が与えられた後、ギデオンはしるしを求めます。そして、与えられたしるしを見て、自分に与えられた使命がまことに主なる神様から与えられた召命であることを確信しました。彼は召命を与えられたその夜に、町にあったバアルの祭壇を壊し、アシュラ像を切り倒して薪にして、主への献げ物として焼き尽くす献げ物をささげました。
 こうして、ギデオンのミディアン人との戦いは、バアルとの戦いとしてもはじめられたのです。彼がバアルと戦う者であったということは、彼の父がギデオンのことを「エルバアル」と呼んだことからも非常に重要な出来事です。この「エルバアル」という名は、聖書協会共同訳では、「バアルは彼と争う」と訳されています。ギデオンはエルバアルというもう一つの名前の通りに、神に立てられた戦士として神の正義を行うべく、異教の神々と、また神の民イスラエルを苦しめるいなごの大群のような敵、ミディアン人と戦うのです。
 そして、本日与えられた聖書箇所、士師記7章1~7節は、ギデオン率いるイスラエルの民がミディアン人と戦うための最終準備をしている、そのような箇所です。本日の箇所で、エルバアル、つまりギデオンは民を率いてエン・ハロドのほとりに陣を敷きました。陣営には 民が三万二千人いました。いなごの大群のようなミディアン人の陣営に比べれば、三万二千人でも少ないのではないかと思わされますが、驚くべきことに主は「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。」と2節でおっしゃるのです。主は続けて3節で「それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」とおっしゃいますが、この民のふるい分けは申命記20章8節の「恐れて心ひるんでいる者はいないか。その人は家に帰りなさい。彼の心と同じように同胞の心が挫けるといけないから。」の原則に従ったものです。このふるい分けによって二万二千人が帰り、一万人まで減ってしまいました。これだけ減れば民は自分の手で救いを勝ち取ったなどと言わないだろう、と私たちは思うのですが主は「民は まだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に 行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」(4節)とおっしゃるのです。主は二度目のふるい分けで、犬のように舌で水を舐める者、膝をついてかがんで水を飲む者とに民を分けられました。そして、「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」(7節)と主はギデオンに言われたのでした。どうして手から水をすすった三百人が選 ばれたのか、その理由は私たちにはわかりません。しかし、重要なのは選ばれた理由ではなく、この三百人という少ない者たちが主なる神様によって選ばれたということです。
 主なる神様は「わたしの一族はマナセ族の中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でもいちばん年下の者です」と言ったギデオンを選ばれたように、いなごの大群の ようなこのミディアン人との決戦を前にしても、弱く、少数の者を選び、そして、この弱い 者たちと共に働かれるのです。たった三百人がいなごの大群のようなミディアン人と戦うだ なんて、ましてや勝利を収めるだなんて、そのようなことは人間の力では決して不可能です。しかし、だからこそ、ミディアン人を打ち倒し、イスラエルに与えられる救いは主なる神様によるものに他ならないと言うことが明らかになるのです。私たちの目から見れば弱さでしかないところで働かれる神の力があります。私たちの弱さをも用いて下さるこの驚くべき 力を持った主を誇る者として、この主なる神様に従い仕えて共に歩んでまいりましょう。