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銀座の鐘

主イエスが熱望された食卓

説教集

更新日:2023年03月26日

2023年3月26日(日)受難節第5主日 銀座教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤

ルカによる福音書22章14~23節

 本日与えられた聖書の御言葉は、受難週の木曜日の晩、主イエスが準備した、過越 の小羊をほふる、過越の食事の席の出来事です。

「時刻になった」
 14節は、「時刻になったので」という言葉で語られています。この「時刻」とは どのような時を表しているのでしょうか。12弟子にとっては、ペサハというユダヤ人の大切な春の祭りが今年も来たという時を迎えたことでしょう。特に主イエスが準備してくれた「過越の食事」がはじまることを覚えていたと思います。しかし、12 弟子の一人イスカリオテのユダにとっては、主イエスを裏切る舞台設定も配置も整えられて、食卓につこうとしています。主イエス逮捕のシナリオの開始時間であったと思います。一方、主イエスにとって、この「時刻」は、最も深い意味を持っていたと思います。この食卓は、主イエスと弟子たちとの最後の食事になることを主イエスは受け止めていました。この最後の食事がはじまる時刻がきたのです。
 ルカによる福音書では22章24節以下弟子たちの間で誰が一番偉いかという議論 がしるされています。そして食後、主イエスは弟子たちを連れてオリーブ山に祈りに 行きました。祈り終わると、弟子の一人ユダが先頭に立って、主イエスを裏切り、大 祭司、祭司長、長老たちによって主イエスが逮捕されます。夜が明け金曜日、祭司長、律法学者が集まる裁判が行われ、死刑判決が下されます。そして主イエスは十字架刑によって処刑されました。
 「時刻になったので」という御言葉は、過越の食事の時刻、最後の晩餐、弟子ユダの裏切り、祈り、逮捕される時であり、十字架刑という死刑判決を受ける時を指し示しているのです。この時、主イエスが受け入れていた理解と弟子たちの理解には大きな隔たりがあったのです。さらに「時刻になった」という御言葉は、私たちに神の時が来たことを教えていると思われます。弟子たちにとっては、主イエスが過越の食事後、主イエスが逮捕され、裁判にかけられ、死刑判決を受けることなど全く予想もしていない事態だったことでしょう。しかし、福音書は、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、十字架刑は、神がご支配する神の時として、十字架の御苦しみと救いの業がはじまった事を伝えているのです。以前、主イエスは三度も受難予告をしていました。大祭司、祭司長、裏切る弟子などの人間の策略と権力が勝利しているように見えるこの「時」は、実は神の御支配の時であったと福音書は伝えているのです。
 私たちはこの最後の晩餐の「時」を毎月第一週、主日礼拝で聖餐式として繰り返し思い起こしています。神のご支配による罪の悔い改めと赦しの時として聖餐に与っています。

主イエスの願い
 主イエスは「あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと切に願っていた」と記されています。ギリシャ語本文では、「切に願っていた」という言葉は、「貪欲に」「熱望する」という二つのほぼ同じ言葉が重ねられています。そこで新共同訳は「切に願う」としました。主イエスのこの熱望は、主イエスがゲツセマネで苦しみもだえて汗を流して「切に祈られた」姿にも続いています。十字架刑の前の主イエスは、父なる神に対しても弟子たちに対しても深い熱情をもって、祈り、願っておられます。主イエス自ら弟子たちとのこの食事をどれだけの思いで願っていたのか受け止めなければなりません。15節を読むとき、私たちは主イエスが十字架の前に熱望していた熱い心と願いを受け止めたいと思います。
 伝統的なユダヤの過越の食事は、「子羊をほふり、その血を二本の門柱とかもいに塗り」奴隷であった神の民がエジプトを脱出し救われたことを思い起こします。犠牲の羊を焼いて、種を入れないパン、苦菜とともに食べます。これが過越の食事のメニューです。主イエスが切に切に熱望した食事は、ユダヤの社会では多くの人々が家族で囲む過越の食卓です。主イエスの過越の食事は、特別な意味がありました。普通の過越の祭りの食卓と違うことがありました。過越の食事は、出エジプト記に記されているイスラエルの神の民にとって、特別な救いの物語です。この救いの物語を思い出すと同時に、主イエス自らが、過越の子羊として十字架上で血を流しほふられることが語られます。「16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」主イエスはこの食卓が最後であることを告げています。これまでユダヤの社会で行われていた伝統的な過越祭は、今後「神の国で成し遂げられる」と宣言されています。過去の救いの物語は、これから完成へ向かうと語られました。「わたしは決してこの過越の食事をとることはない」とは、主イエスが自ら犠牲の子羊となり、救いの完成のために十字架に架かることを弟子たちに伝えているのです。そして、過越の食事の完成に向かって主イエスは御自身の命をお与えになるのです。この主イエスの命を与える食卓が私たちが毎月、礼拝堂で行っている聖餐式の原点です。
 「イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。」「イエスはパンを取り、…それを裂き、使徒たちに与えて言われた。」「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」「杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」」
 主イエスが熱望していたのは、弟子たちに主イエスの命を与える聖餐だったのです。主イエス自ら「あなたがたのために与えられるわたしの体」と「あなたがたのために流される、わたしの血」としてパンと杯を与えているのです。伝統的な過越の食事は、こうして聖餐によって完成へ向かうのです。神の国で過越が成し遂げられるために、私たちは聖餐に与っているのです。聖餐に与るとき、神による救いの完成を望み見るように教えられているのです。

新しい契約
 主イエスは最後の晩餐において、神の救いを成し遂げるために、御自身の命であるパンと杯を手渡して、「わたしの血による新しい契約である」とお語りになりました。主イエス自ら逮捕され十字架刑で殺される前に、十字架上の主イエスは救いの完成のための犠牲の子羊として十字架で死、この犠牲によって私たちの罪を赦し、新しい神の民として契約が与えられ、罪赦されて生きる道を開いてくださったのです。私たちはこの主イエスの自己犠牲の救いに招かれているのです。聖餐に与るということは、十字架の主イエスの招きに応えて洗礼を受け、神の御前に進み出て行くことです。
 この恵みが「新しい契約」と語られています。主イエスによる新しい契約は、主イエスだけが血を流し、弟子たちは血を流すことなくその赦しの恵みに与ることです。この契約は神が命をかけて義務を果たしてくださり、弟子たちはその恩恵に与るという契約です。弟子たちに義務も条件もなく、神の救いをいただく契約です。

弟子ではなく使徒
 主イエスは12弟子を22章14節以下で、「使徒」と呼びます。使徒というのは「遣わされた者」という意味です。ルカによる福音書は22章1節から6節でユダが主イエスを殺す計画をしている仲間に加わったことが記されています。にもかかわらず、14節、19節、23節でも「使徒」として語り裏切るユダを区別していないのです。どうしてユダを使徒と呼べるのでしょうか。過越の救いの完成は、ユダを含めて弟子たちの救いの完成でもあるからです。主イエスの十字架による犠牲は、主イエスを裏切る者をも赦す力をもっているのです。主イエスの語られた新しい契約は、ユダを除くことのない契約なのです。その上で、主イエスは22節「人の子は定められ たとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」と語られました。
 聖餐の恵みに与るということは、私は「ユダ」ではないと胸をなで下ろす事ではないのです。主イエスから離れ立ち去ったのはユダだけではありません。十字架の主イエスに従うことが出来なかったのはすべての弟子でした。そして私たちも主に従うことが出来なかった者の一人ではないでしょうか。にもかかわらず12弟子を「使徒」として呼んで下さるのです。主イエスは、「裏切る者は不幸だ」と語りつつ、弟子たちがひとたびキリストから離れても、見捨ていることなく、悔い改めて立ち帰ることを切に願い続けておられるのです。だからユダを食卓から排除しなかったのです。
 十字架の主イエスは、私たちが主の御前に立ち帰ることを願い続けておられます。そして、私たちを招き続け、聖餐に与ることを願っておられるのです。私たちは主イエスが熱望して下さった、罪の赦しの聖餐に与るように招かれていることをしっかり心に刻み込み覚えましょう。熱望してくださった主イエスの招きに応えて、洗礼を受け、恵みの座に進んで行きたいと願います。祈りましょう。