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銀座の鐘

「キリスト者の生きる義務」

説教集

更新日:2026年09月19日

2026年9月20日(日)聖霊降臨後第17主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝  牧師 近藤 勝彦

ローマの信徒への手紙8章12~15節

 人間は誰でも何らかの義務をもって生きています。家族を扶養する義務とか、国民としての納税の義務などが考えられるかもしれません。今朝の聖書箇所は、キリスト者の義務について語っています。わたしたちキリスト者は、みな、自分の力で一人生きているわけではありません。神の恵みにより、主イエスの十字架による罪の贖いによって、主にある兄弟姉妹と共に生かされています。神はまた、キリスト・イエスを復活させた霊、命をもたらす霊によって、わたしたちを生かしてくださっています。この神の恵みを受けて、その恵みに応えて生きる義務がキリスト者にはあると言ってよいでしょう。12節でパウロは「それで、兄弟たち」と語りかけています。「それで」というのは、正確には「それゆえに、兄弟たち」と言って、これまで述べて来たことを踏まながら、結論をはっきりと語るわけです。「それゆえに、キリスト者であるわたしたちには、一つの義務があります」。そう語って、その義務は、「肉に対する義務」ではない、肉に従って生きるのでなく、恵みにより、霊によって生かされているのですから、「霊に従って生きる義務」だと言われます。ここで「肉」と言われているのは、神に敵対し、神から離れ、自分中心の欲望に生きる生き方のことであって、罪に捉えられ、結局死に結びついた生き方です。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」と言われます。そんなふうに死ぬ義務は、キリスト者にはありません。そうでなく、命を与え、愛と喜びと平和を実とする霊によって生きる義務があるわけです。
 そこから霊にあり、霊に従い、霊によって生きる者として、激しい言葉が記されます。13節です。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」とあるのに続いて、「しかし霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます」と言われます。「体の仕業を断つ」というのですが、「断つ」と訳された言葉は、文字通りに言えば、「殺す」という言葉です。「体の業を殺すなら、あなたがたは生きる」と言うのです。「体の業」は、「肉に従った業」と同じで、「罪の業」と言ってもよいでしょう。それはわたしたちを神から引き離す業です。この個所の文脈では、「体」は「肉」や「罪」とからまりあっています。神を神として信じない不信仰な生活、神を無視し、神に反逆して、神以外の物に執着する生き方。それを「霊によって」殺す、そうすればあなたがたは生きるというのです。信仰生活の中に激しい戦いが含まれていることが表現されています。
 ことはわたしたちに働いている「罪の残余」と関係します。わたしたちは罪を赦され、罪の支配から解放されて、キリストのものとされました。罪はもはや主の十字架において処罰され、神の前に無力化されています。しかしわたしたちには、なおこの罪の残余に惑わされる日々があります。その意味では、信仰生活は安穏とした、なんの戦いもない、のんびりした生活ではありません。恵みの中に生かされながら、肉と罪とその結果としての死に直面し、信仰に生きる、霊にあって霊に従う戦いの中にいます。この信仰生活の戦いをどう生きたらよいのでしょうか。
 今朝の箇所では、「体の仕業」つまりは「肉の業」ですが、その具体的な内容は記されていません。どんな業が、肉の業、罪の業として、わたしたちを神から引き離すのでしょうか。使徒パウロは、何を考えていたか。それはたとえばガラテヤの信徒への手紙5章で分かります。そこには「肉の業は明らかです」と言って、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(19節)とあります。性的な歪み、宗教的歪曲、人間関係に現われる不正、自己中心的で、平和な生活を破壊する振舞いが挙げられています。
 それらを断つ、それらを殺すというのは、激しい行為ですが、重大なのは、ただ断つ、殺す、ではなく、「霊によって」と言われていることです。霊にあって生き、霊に従って歩むことが根本で、それによって死ぬべき肉の業、罪の残余にもはや支配されない、そこから解放されてよいわけです。「体の仕業を殺す」と13節では言われますが、その前の10節にすでに「体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています」とあります。つまり体の業、罪の業、肉の業というのは、死んだ状態だと言うのです。
 信仰生活には、二つの死があると言ってもよいのかもしれません。どの信仰者にも、地上における人生の終わりがあります。その終りがいつ来るかは神の御手にあることですから、わかりません。しかしそのときまでは、信仰によって喜んで生きていきます。そしてそのときが来たとき、信仰によって復活のキリストの命、永遠の命にあずかっていることを信じて、キリストと共に死にます。終りの時の復活の希望をもって、地上の人生の死を受けとめます。パウロは「わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです」(フィリ1・21)と言いました。そういう死があります。
 しかしそれだけでなく、日々、霊にあって生かされながら、それだからこそ罪に対して死ぬ、肉の業を断つ、体の仕業を断つ、死んだ状態で生きるのではない、そうでなくて、信仰に生き、キリストの霊にあって、神を父とし、主イエスにある喜びの日々を生きる、そういう日毎に肉による死んだ状態に対して死んで、神の霊による命に生きる、そういう生と死があるわけです。
 そのとき重大なのは、肉の業、体の業を殺すべく立ち向かっていくよりは、神の霊に生かされ、神の霊によって導かれることで、それによって「神の子」とされて生きることです。それが根本をなし、土台をなします。14節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」とあります。
 「霊によって体の仕業を断つ(殺す)」は、激しい表現ですが、ガラテヤの信徒への手紙の方では「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」(ガラテヤ5・24)と表現しています。根本にあるのは、「キリスト・イエスのものとされる」ことであり、「霊にあり、霊に導かれて神の子とされて」、生きることです。霊は「命を与える霊」であり、同時に「神の子とする霊」です。「あなたがたは人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」(15節)とあるとおりです。
 色々な貪欲や不信仰との戦い、それを殺すことがもっぱら主要な人生態度であったら、信仰生活は暗く、厳格な禁欲主義になるのではないでしょうか。あるいはこの世から隔離された孤独な修道者、世捨て人の修験者になるかもしれません。しかしそれは聖書が証言しているキリスト者の姿ではありません。キリスト者は、神の霊にあって生かされ、霊に導かれて生き、霊に従って歩みます。この積極的な面が重要で、「神の子」とされた喜びのうちに生きるのが信仰生活です。
 体の仕業、肉の業を殺すと言うのも「霊によって」ですから、霊によって生かされ、「神の子」とされていることによってです。暗い修道者でなく、明るい神の子です。そして実際、霊にあって、霊に導かれ、「神の子」とされて、霊の実を結ぶ。「霊の実とは、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5・22)と言われます。
 神の子とする霊を受けた人はどう歩むでしょうか。真っ先に何をするでしょうか。真っ先にすることは肉の業、体の仕業を断つことでしょうか。それよりも、むしろ神の子とされたキリスト者が真っ先にすることがあります。それは神に対して本心から「父よ」、「アッバ、父よ」と呼ぶことではないでしょうか。「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)とあるとおりです。キリスト者の義務は、肉でなく、霊に従って生きる義務、と言うことは、アッバ、父よと真実に呼ぶ義務です。
 信仰生活には戦いがあるとしても、真っ先にするのは「アッバ、父よ」と呼ぶことです。それは祈りですが、同時に、歓呼、喜びの叫びです。キリスト者というのは、心の中で「アッバ、父よ」と呼ぶ人、日に一度と言わず、何度でも、歓呼の叫びをあげている人のことです。
 新約聖書は当時の国際的言語であったコイネー・ギリシャ語で記されています。しかしいくつかの言葉が主イエスと弟子たちの日常語であったアラムで残されました。アーメンがそうです。ハレルヤもそうです。そしてとりわけアッバがそうです。アラム語を知らなかった異邦人キリスト者も、この言葉を礼拝の中で声を挙げて叫んだと言われます。どんな試練の中でも、苦難の中でも、アッバと呼ぶ。霊に従って生きることがどんなに慰めのある、力強い信仰生活になることでしょうか。

 天の父よ、霊に従って生きる信仰生活の素晴らしさを御言葉をとおして教えられ、感謝します。どうかあなたを父よと呼ぶことをわたしたちの日々の根本とし、また第一のことにさせてください。そのために御子である主イエス・キリストの贖いを受けていることを思い起こさせてください。あなたの子とされた幸いを、与えられた救いとして、信じて、また伝えることができますように。この世界に生きる人々のさまざまな試練があることを知らされています。あなたを信じて、あなたを喜ぶことこそ、この世を生きる力の源であることを証させてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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