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銀座の鐘

「十字架の死と秘儀」

説教集

更新日:2026年08月29日

2026年8月30日(日)聖霊降臨後第14主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤

ルカによる福音書23章44~46、50~54節

 本日は、使徒信条の中心に記されている「死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり」という告白について、ご一緒に理解を深めたいと思います。使徒信条の言葉が現在の言葉になるまで、紀元2世紀から5世紀くらいまで数百年という長い年月が必要でした。その間どんな戦いや議論がされていたのでしょうか。現在でも歴史神学者や組織神学者が研究しています。 初期キリスト教会の中に間違ったイエス・キリスト理解を宣伝して、数百年後に異端と呼ばれることになった人々がありました。その一つが「仮現論」と呼ばれ、後に異端となった思想によるキリスト理解です。仮現論を主張したたのは、ヘレニズム世界で盛んだったグノーシス主義と呼ばれる人々でした。彼らは、使徒信条で告白する主イエスの十字架の死と復活を信じることを否定しました。グノーシスは、キリストが十字架に架かったのは、死んだように見えただけで、本当は仮の姿であったと説明しました。仮現というのは仮にこのように見えたとする考え方です。ギリシャ語ではドケーインといい、何々のように見える、何々のように思われるという意味の言葉から由来し、仮現論はドケティズムと呼ばれます。
 仮現論によって主イエス・キリストの十字架も復活も、ただそのように見えただけで現実にはそうではないとして、イエス・キリストは神ではないと理解しました。主イエスは救い主でも何でもない幻想であると理解しようとしたのです。仮現論によってイエス・キリストは人間と同じ肉体を持っていたのではなく、イエスの身体は幻であり、一時的な仮りの姿であったと主張しました。彼らは完全普遍であるはずの神が、不完全な肉体をもつことや肉体的な苦痛を経験したり、死んでしまうことなどあり得ないと主張しました。神が有限な肉体をもつことは、神の尊厳に反すると聖書や使徒信条の信仰に対して徹底的に
批判しました。
 2 世紀初頭のアンティオキアのグノーシス主義者は、キリストは肉体を持たず、人間の形をとって出現したに過ぎないと主張しました。アレクサンドリアで活動したグノーシス派の人は、十字架上で身代わりが処刑されたとする説を展開しました。マルキオン派という人々は、旧約の神と新約の神を明確に区別し、キリストは誕生や成長を経ず、人間の肉体を持たない姿で天から降臨したと説明しました。
 このような仮現論を主張する人々に対して、初期キリスト教会の使徒教父と呼ばれる人々は仮現論に対して勇敢に信仰告白をもって戦い続けました。その戦いの一部が新約聖書のヨハネの手紙一やヨハネの手紙二に登場します。「7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。」とグノーシスを警戒することが書かれています。 1 世紀末〜2 世紀初頭の時点で既に仮現論からの攻撃と反論が始まっていたことがわかります。
 初期キリスト教会を救った教父の一人にアンティオキアのイグナティオスがいます。彼はキリストの誕生・苦難・復活は仮の姿ではなく「真実」であったことを強調しました。また、イレナイオスやテルトゥリアヌスという教父は、「もしキリストが真の肉体をとって死に、復活しなかったならば、現実の人間や肉体の救済(贖罪)も成立しなくなる」と反論しました。長い年月に亘るグノーシス主義者との戦いは 5 世紀、451 年のカルケドン公会議と呼ばれる教会会議において決着しました。キリストは「真の神であり、真の人である」という信仰の言葉によって、教会の信仰が確定し、仮現論は異端として退けられました。
 このような数百年の信仰の戦いによって、仮現論は退けられ、使徒信条の信仰が、キリスト教会の基本信条、世界信条として現在に至るまで伝えられているのです。
 使徒信条の信仰告白は、「真の神であり、真の人である」と確認し、キリストが見せかけや仮の姿ではなく、本当に死んだと告白します。聖書には「死」とは「最後の敵」(1コリント 15 章)と記されています。私たちが回避できない恐るべき脅威である死を神の御子である主イエス・キリストは私たちに代わって、私たちが死ぬべき死を死なれたのです。救い主であり神の子である主イエスが死んで葬られたということは、私たちの罪を引き受け、その罪に対する罰を受けてくださった出来事なのです。この主イエスのお姿が同時に私たちの罪の姿であり、主イエスは私たちの罪ゆえに受ける罰を担われ、私たちの身代わりとなってくださったのです。この最も深刻な主イエスの死の時、神の中で大きな逆転が起こったのです。完全に死んだ主イエス・キリストは、十字架から下ろされ、アリマタヤのヨセフという議員が主イエスのご遺体を引き取り、ヨセフの新しい墓に収められました。私たちの救い主が私たち人間の死を死んで、墓に葬られることを通して、主イエスの死と葬りが、私たちの死と葬りと無関係ではなく、最も大切な愛の関係になったのです。
 三位一体の神は本来死臭を放つ墓をキリストの香りを放つ命の場所にしました。主イエス・キリストが葬られたことから、墓が死から命へ、死に勝利する命の墓に変えられたのです。世界の教会はここに死の向こうに命の希望を持つことができるようになったのです。神は死の国において死と戦い、死を克服し、死に勝利し、死を滅ぼしたのです。そして、主イエスは復活の姿を現してくださるのです。この神による死から命への大きな逆転は、主イエス・キリストが十字架で死なれましたが、三位一体である父なる神も聖霊なる神も死なないのです。主イエスの死を通して主イエスの愛が父なる神と聖霊なる神によって神の愛の力となって死を克服したのです。十字架の愛は、神の愛の力となって、私たちはますます神の愛によって神と共にいることができるのです。使徒パウロの言葉によって、私たちが神の愛によって神に結ばれていることを確認できます。「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできない」(ローマ 8:39)とあるとおりです。キリストの十字架の死は、死に対する神の愛の勝利を示しているのです。
 主イエス・キリストの死と葬りは、私たちキリスト者の命に根本的な意味を与えました。それは洗礼です。私たちは洗礼を通して古い人がキリストと共に死へと葬られます。すべての古いものが洗礼を通して、キリストの死にあやかり、死に勝利した神の恵みのよってキリストと共に復活し、新しい命へと招かれるのです。罪の負債は取り去られ、私たちは新しい命へと導かれるのです。
 私たちは洗礼において水をかぶります。この水によってキリストと共に死ぬのです。死ななければ新しい命に復活することはありません。ひとたび主イエスによって死んだのですから、私たちは自分の過去の経験や利己的な考えや、強情さにしがみつかなくても良いのです。新しい自由の中で神の意志を輝かせるために歩み出すことになるのです。この新しさはキリスト教の教えで聖化と呼びます。もはや私たちの命は私のものではなく、キリストの命です。キリストを生きるのです。キリストのお考えによって生かされるのです。
 使徒信条には、主イエス・キリストが「死にて葬られ」のあとに「陰府にくだり」と記されています。キリストが陰府にくだったという言葉は紀元 4 世紀になって西方教会と東方教会でも見るようになりましたが、様々な議論があり、統一見解は出ていないようです。
 聖書には陰府にくだりという言葉で連想するのは、ペトロの手紙一 3 章 18-20 節です。
「18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」 ペトロの手紙一 4 章 6 節には、このように記されています。
「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」
 このみ言葉以外には、死後の世界でキリストが伝道していることを記した箇所はないと思われます。果たして、私たちは人間の死後回心の可能性をどのように受け止めたら良いのでしょうか。日本においては生涯一度もキリストの福音を聞く機会もなかった人が少なくないでしょう。そのような人には、神の救いにあずかるチャンスがないままなのでしょうか。あるいは反対にキリスト教以外の宗教を信じて亡くなった方について、死後回心を強調するあまりに、その人の信仰と尊厳を軽んじてしまうのではないだろうかという問題もあります。
「陰府にくだり」とは、主イエス・キリストが引き受けてくださった死が身体的な死だけでなく、罪の重荷を引き受けた死として「神から捨てられた」重荷を受けていることを「陰府にくだり」と表現したのではないかという理解があります。陰府とは神との交わりが失われたところだからです。
 宗教改革者カルヴァンは「陰府にくだり」とは、キリストが神の刑罰の厳しさを身に受け、罪に定められ失われた人間の恐るべき苦しみを主イエスが苦しんでくださったことだと説明しています。カルヴァンは「陰府にくだり」とは「刑罰」を意味し、主イエスの十字架の死をもう一度確認して、キリストの苦痛を強調していると理解しました。
 ほかには、これは主イエスの苦痛ではなく、勝利が示されているのだと理解する見方もあります。主イエスが陰府への勝利の行進をしているのだという理解です。このようないくつかの理解があることを知ることには意味がありますが、どれかに決めなくても良いと思います。なぜならば、死後回心は神の領域であり、私たちに隠されていることを認めなければならないと思うからです。神の御業に謙虚に委ねつつ、主イエスの十字架と復活を信じて、神の救いと罪の赦しを感謝して受け入れる姿勢を大切にしたいと願います。私たちには隠されていることがあることを受け止めて、信仰生活を歩みたいと思います。
 私たちは死後ではなく今与えられた日々において、生ける主イエスを救い主と信じて、主に従って行くことを第一として良いのではないでしょうか。私たちの想像や思い入れを遙かに超えた神の可能性を信頼しつつ、何よりこの世において生きている間に主イエス・キリストを信じて従ってい行くことを大切にしたいと願います。

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