「復活信仰」
説教集
更新日:2026年09月05日
2026年9月6日(日)聖霊降臨後第15主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤
ルカによる福音書24章1~12節
1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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キリストの弟子たちは、主イエスの復活を信じる信仰をどのようにして与えられたのでしょうか。主イエスの十字架のそばから恐れて逃げたキリストの弟子たちが、恐れを克服し、命をかけて福音を宣べ伝える者に変えられたのは何があったからでしょうか。私たちが主イエスの復活を信じることにはどのような意味があるのでしょうか。使徒信条の信仰告白の中で、現代人がもっとも受け入れがたいと思われるのは、主イエス・キリストの復活ではないでしょうか。しかし、主イエス・キリストの復活を信じることへ導かれると、私たちの人生は死を恐れず、永遠の命への希望を与えられます。
本日は、主イエス・キリストの復活について記された聖書の御言葉を通して、使徒信条の「三日目に死人のうちよりよみがえり」という大切な復活信仰について、御言葉を通して理解を深めたいと願っています。
キリスト教信仰の中心はキリストの復活を信じる信仰です。主イエスの復活を通して復活の主イエスに出会った人々の証言によって、キリスト教会の土台が形成されました。キリストの復活によって教会が建てられました。現在世界にキリストの教会が存在しているのは、キリストが復活したことを信じて伝えているからです。私たちが日曜日ごとに礼拝に集まり神を賛美しているのは、私たちの救い主が十字架上で息を引き取られたあと、三日目に復活したからです。復活の主イエスに出会った人々がその忘れられない経験を通して、死から命へ、絶望から希望へ、どんな苦しみにも諦めることなく、主イエスの復活を信じる信仰によって、死を克服する希望の力が与えられている証です。
しかし、最初の教会においてはキリストの復活を信じる信仰は、簡単に与えられたのではありませんでした。少なくとも主イエスと寝食を共にした12人の弟子たちでさえ、最初は信じることができませんでした。しかも主イエスが予告していたにも関わらず信じられなかったのです。主イエスの復活については、主イエスご自身が十字架刑の前に、三度も弟子たちに予告していました。最初に主イエスが自身の受難と復活を予告したのが、ルカによる福音書 9 章 21 節 22 節です。「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」また、二度目に予告されたのが 9 章 44 節以下。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」三度目の予告ルカによる福音書 18 章 31 節以下に記されています。 「31イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。32 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。33 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」34 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」
このように主イエスはとても大切な事として三度も主イエスご自身の言葉で、直接弟子たちに対して、異邦人に引き渡されて乱暴な仕打ちを受け苦しみ殺されること、十字架刑だけでなく同時に死からの命、主イエスご自身の復活をも予告していたのでした。主イエスが自らこんなに大切な事を何度も伝えていたにもかかわらず、弟子たちはあたかもなにも聞いていなかったかのように、主イエスの十字架のそばから逃げ出してしまいました。三日目に復活するとの主イエスの言葉を思い出すことさえできなかったと、正直に聖書に記されています。ゆえに三日目の朝、復活の主イエスを迎えることが出来なかったのです。これが主イエスの弟子たちの正直な姿です。弟子たちは主イエスの大切な予告の言葉が、あのときは何も分からなかったと告白しているように、最も大切な神の言葉が理解できなかったのです。
小さい子供の頃はよく親から、話しをよく聞きなさいとか何度言ったらわかるのとか、こんなに大切な約束を忘れてしまったのか、と叱られた記憶があるのではないでしょうか。主イエスの弟子たちのことを批判できないのが私たちではないでしょうか。主イエスの復活について、弟子たちはまったく信じられなかったのです。では、復活信仰はその後、どのようにして与えられたのでしょうか。
使徒信条において「三日目に死人のうちよりよみがえり」と復活信仰が告白されていることはとても大切な事なのです。聖書に記されている復活を信じる信仰の言葉と同時に使徒信条を受け止めたいと思います。新約聖書においてパウロは、記しました。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」ローマの信徒への手紙 10 章 9 節。「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」コリントの信徒への手紙一 15 章 14 節。
使徒言行録には「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」 使徒言行録 4 章 33 節と記されています。
キリストの復活をなんとしてでも否定したかった人々がいました。それは誰でしょうか。それは、当時のユダヤを支配していたローマ帝国でしょう。そして、キリストの十字架刑を執行したユダヤ教指導者たちでした。最初の教会を取り巻く当時の支配者たちが、決して認められなかったのが主イエスの復活でした。なんとしてでもキリストの復活を信じさせたくなかったのです。ローマ帝国は初代教会を数百年に亘って迫害しました。しかし、どんなに迫害しても、キリストの復活を信じて、死を恐れないキリスト者が立ち上がってくるのです。政治の力、軍隊の力、宗教的指導者の力を結集しても、この世において政治の力も武器も権威もないキリスト者の復活を信じる信仰が初代教会に新しい力を得て生き続けたのです。これば、驚くべきことではないでしょうか。
十字架刑の時には「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マルコによる福音書 14 章 50 節)のです。主イエス 12 弟子の一人ペトロでさえ「70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」マルコによる福音書 14 章 70-72 節
主イエスを知らないと繰り返したペトロの姿です。
そのような弟子たちは復活の主イエスに出会いました。主イエスの方から弟子たちに姿を現しました。 「19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」(ヨハネによる福音書 20 章 19 節)弟子たちが復活の主イエスに出会い、そして喜んだことによって、主イエスの復活を信じる信仰が与えられのです。
私たちは復活の主イエスに出会った直接の証人ではありません。私たちは自分の経験、実際に見たこと聞いたことは信じて語ることができますが、見たことも聞いたこともないことは信頼することは難しいものです。しかし、三度も主イエスが十字架と復活を予告してお語りになったこと、復活の主イエスの姿を現してくださったことを通して、政治的な力や武力、権力によってではなく、神の愛の力によって信じて生きる道が備えられているのです。そして、神の愛を通して、信仰の言葉が与えられます。それが使徒信条です。復活信仰を身につけるためには使徒信条の告白がなくてはならないのです。信仰告白を通して、信仰を身につけらることができたのです。ここには政治権力や武力、権威によっても打ち負かされない神の力が働いているのです。自分の力では信じることができない私たちを信仰の交わりへ招いてくださる神の愛が働いているのです。弟子たちがそうであったように主イエスの復活はこの世の知恵では理解出来ないことなのです。理解できないからこそ信仰の言葉、使徒信条を通して、神の秘義が与えられるのです。
使徒信条は、私たちが理性と教養で理解することが出来ない、信じられない心に繰り返し語りかけ、信仰を与え、救いへ導く言葉です。本来私たちは自分の経験や知識以外のことは受け入れられない者です。たとえ主イエスから直接何度も聞いていても、十字架刑のような衝撃的なことがあると、全てのことを忘れて逃げ出してしまうほど大変弱いものです。そのことを誰よりもよくご存じなのが主イエス・キリストです。だからこそ何度も弟子たちに語りかけたのです。そして、信じられない弟子たちに復活の姿を現してくださったのです。
復活の主イエスに出会った弟子たちは、生まれ変わりました。主イエスの復活の証人に変えられました。復活の主イエスは40日間そのお姿を現し、弟子たちはじめ多くの人とともに語り合い、食事をしたり、大切な事を伝えました。もはや復活の主イエスが語られた言葉を聞いた弟子たちは御言葉を忘れることなく、心に刻んで、力強い伝道へと向かいました。
復活の主イエスは、死によって全てが終わってしまうと理解する私たちに、死の向こうに命があること、死んで敗北し虚無になるのではなく、死への慰めと、死に勝利した主イエスの復活を信じて生きる復活を信じる希望の道を開いてくださいました。
復活のキリストはこう語られました。「18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」ヨハネによる福音書 14 章 18~20 節
私たちの死を克服した復活のキリストを信じて、喜びの信仰生活を全うしましょう。