「天に昇るキリスト」
説教集
更新日:2026年09月12日
2026年9月13日(日)聖霊降臨後第16主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村 満
使徒言行録1章6~11節
6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
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使徒信条の主題説教を続けております。本日は、使徒信条後半にあります告白。「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり」という告白文を紐解いていきたいと思います。主イエスは十字架上で死んでのち、陰府にくだり、復活されたのち、40日にわたり、地上で御自身の弟子たちの前に出現されて、神の御計画を語られたのち、天に昇られました。それが先ほど読んでくださった箇所であります。十字架と復活。これが、わたしたちキリスト者の信仰の中心と言えますけれども、同時に、今日の御言葉が指し示すこと。復活された主イエスが天に昇られたということも同じくらいに大事なのであります。それは、復活してくださった主イエスが現在この地上に生きるわたしたちに今どのようにかかわってくださっているかを知ることになるからであります。
本日与えられました御言葉は使徒言行録の1章6節~11節です。6節をもう一度お読みします。
「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時なのですか』と尋ねた。」
これは何を質問しているかと言うと、実は彼らは、いまだに死んで復活される前に主イエスに期待していたのと同じ、この地上におけるイスラエルの国の復興の時を願っているのです。彼らが「国」という言葉をもって考えているのは、ローマ帝国の支配から解放されて、彼ら自身の国家。神の統治による国家を再建するという、当時のユダヤ人の期待と何ら変わらないものでありました。神の国という言葉を聞いても、いまだに弟子たちはそのような世的、地上的な価値観でしかそれを考えることができていなかったのです。ということは、彼らは復活という不思議な出来事を目の当たりにしながら、主イエスをまだこの地上の王、イスラエルの王、という限定された次元における王。世の中の王たちと同じ枠組みでしか考えていなかったのでしょうか。しかし主イエスによってもたらされる神の国は、イスラエル民族に限定されるものではなく、全世界に広がるものです。政治的、国際的な枠組みをはるかに超越した、超時間的・超空間的な広がりをもつものであります。つまり、国境や、地理的な限界を一切持たないものであります。何より、一人一人の人間の心の内にまで浸透して、人の思いを新しくするものであります。罪の赦しという、断絶を修復し、神とのつながりをもって人間の魂を救うものであります。そのような人間の救いや、神の国の到来の意味について。主イエスの十字架と復活の意味についてまだ無知をさらけ出している弟子たちに対して主イエスは言われました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」ここで主イエスがおっしゃる神のお定めになった時や時期。それは終末。世界の終わりの全てが新しくなる時であるかもしれません。少なくとも弟子たちの考えているようなかたちで神の国が地上に成るわけではないことを主イエスはよくご存じでした。ただ、天の父がお定めになっていることを詮索する必要はない。それは神の秘密。神秘に属することだからだ。勝手な詮索をしてはいけない。そうおっしゃろうとしたのではないでしょうか。弟子たちは、まだ、主イエスの十字架と復活から始まっている神の国の意味についてわかっていません。しかしこれから、わかることになるのです。そのために主イエスは天に昇られるのです。彼らの信じ願っている希望をはるかに超える希望と喜びをもたらすために復活された主イエスは天に昇って行かれます。主イエスが天に昇られる前に重要なことを言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」まさに、弟子たちに聖霊を授けるために主イエスは天に昇られたのです。聖霊が人々に注がれる。それは、このあと2章で語られるペンテコステの出来事であります。聖霊を受けて、鞭であった弟子たちは主イエスの十字架と復活の意味。人間の救いについて。死を越える新しい命の希望について。全てを知ることとなるからです。主イエスが天に昇られることによって、むしろ主イエスは全ての者たちと共に生きるものとなりました。天と地上をつなげてくださった。天から注がれる聖霊によって、私たちは皆、天を仰ぎ、天におられる父なる神と、その右に座しておられる主イエスと一つとなったのです。
さて、主イエスが天に昇られたあと、雲に覆われて彼らの目から見えなくなったとあります。その、主イエスが見えなくなってしまった天空を弟子たちはずっとぽかんと見つめ続けていたようです。すると白い服を着た二人の人がそばに立って言います。彼らは天からの御使いであります。御使いは弟子たちに告げました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」これはおそらく、再臨。主イエスが再びこの地上に来られるときのことを伝えているのです。しかしそれはいつなのか。私たちには知らされていません。知らなくてよい。知ろうとしてはならない。しかしはっきりとわかっていることは主イエスは天に昇られた。やがて世界の終わりまで主イエスは神の右に座して、わたしたちのために執り成してくださっているということであります。そこでまた少し問いを新たにしたいのですが、天とはいったいどこなのでしょうか。この聖書の描写ですと、このまま空のかなたまで上に昇って行って、大気圏をこえて宇宙のかなたに行ってしまわれたようにも感じますが、そうではありません。わたしたちの感覚ですと、天と地というと、空のかなた。宇宙空間が天なのかと思います。けれどもよく考えますと宇宙もまたロケットで飛び越えて月面にも行くことができる時代となりました。そのように物理的につながっている宇宙空間は、この地球と地続きであります。いわば宇宙もまた、三次元空間という意味においてはまだ地上なのです。聖書が伝える天。それは、この世界とは別次元であります。宇宙の果てまで行くことができたとしても父なる神と主イエスのおられる天には行かれません。天は、宇宙の外にあって宇宙全体を支配しているのです。そう考えますと天とはどれほどに果てしないところなのか、と思います。その天をわたしたちは信じます。それはわたしたちがいつか行き着くべきところであるからです。そしてその道を主イエスが十字架と復活。そして昇天をもって、切り開いてくださったのです。ここでわたしたちが信じるべきことがあります。それは、主イエスは復活した肉体をもって天に昇られたということです。幽霊になって天に昇られたのではないのです。このことを信じることはとても大事です。なぜなら、私たちが復活する時。そのとき、わたしたちもまた再び肉体をもって復活するからであります。その復活の体は、この地上の老いていく肉体とは全く違う霊の体であります。どのような体であるのかはわかりません。皆一様に若い、20歳くらいになって復活するのか。それとも死んだときの年齢で復活するのか。それだったら若い時に死んだ人の方が得じゃないか、などという話になりますけれども、おそらくそういう地上にいたときの、若いとか老けているなどという現象を越えたものであると思います。やがて古くなる新しさではなく、永遠の命をもつ体であるからです。それがどんなものであるのか。それもまた神秘に包まれています。わからない。わからなくてもよい。復活してからのお楽しみです。大切なことは、そのような命の道を拓くために、主イエスはわたしたち人間の代表となって、まず天に昇ってくださり、そこで神の右に座しておられる。そこから聖霊を注ぎ、霊において天の父とキリストと一つにつながりましたから、私たちは天上の主イエスを頭とした、イエス・キリストの体としてこの地上を歩むのであります。教会はキリストの体であると言われております。それは、わたしたち一人一人の内に聖霊が降り、聖霊に導かれて歩むとき、その私たちを通してキリストがこの地上に生きて働いてくださり、神の御支配をもたらしてくださっているということです。わたしたちは天上のキリストを頭とした枝であるから、いつも天におられる主イエス、父なる神とひとつなのです。そして、それ故に私たちの内にはいつも希望があります。それは、私もまたいつの日か天に昇るということです。主イエスが天に昇ってくださった。だからわたしたちも必ず天に昇るのです。
しかし、わたしたちの希望と喜びは将来に約束されている天の御国というだけではありません。それは究極的な希望でありますけれども、また、すでに今ここに来ている喜びであります。つまり、神の国。神の御支配は今この地上において味わうことが許されているのです。主イエスが天に昇り、そこから聖霊を送ってくださっているから、ここに、聖霊を通して神の国が来ているのです。私たち一人一人の人生に神の国が来ているのです。私たちの生活に、主イエスが共におられるのです。ですから、わたしたちは二つの希望に生かされているのだとも言えましょう。今すでにここにある聖霊の御支配。そして、将来、わたしたちは死んで天に召され、ふたたび復活する。わたしたちの救いが完成する。死も悲しみももはや過ぎ去って新しい天と新しい地を仰ぐ日が来る。その日を希望して、この地上の生活を全うしたいのです。
最後に天に昇られた主イエスが、神の右に座しておられることの意味をお伝えして終わります。主イエスが天に昇られ、今、天の父の右に座しておられるとあります。それはどのような意味を持つのでしょうか。神の右におられる。それはいわば父なる神の権威が主イエスにゆだねられているということでありましょう。天の父なる神の右に座り、神の御支配を担っておられる。この世界と全ての人間の審判者。そして神の御国の権威を担っておられるのはイエス・キリストであるということでありましょう。主イエスを通して、全てが実現していくのであります。主イエスと父なる神はいつもひとつであられ、神の権威、神の御力はイエス・キリストにおいて実現されていく。この神の権威をもって、主イエスは神の右で何をされているのか。それは、わたしたちのためにとりなしてくださっているということです。だから、私たちはいつも祈りの最後に、「イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」とそう祈ります。マリアの名前でもなければ、他のどんな聖人たちの名前でもなく、イエス・キリストの御名によって。その権威に私たちの祈り願いをゆだねます。そう祈る時、その祈りは必ず天に聞き届けられる。そして主イエスによってとりなされていく。正しい祈りであるならば必ず聞かれ、成就しますし、間違った祈りであったならば、わたしたちの心が正しく整えられていくことでしょう。あるいはわたしたちの祈り願いを越えて、もっと深い御心の中で成就することもあるでしょう。そのように、主イエスが天の父なる神の右に座しておられるということは、わたしたちのために天においていつもとりなしてくださっているということを意味しているのです。ローマの信徒への手紙の8章31節以下をお読みいたします。この箇所は以前にも何度か引用されたかとも思います。それほどにわたしたちが主イエスを信頼するために確かな御言葉であります。
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
主イエスが天においてわたしたちのために執り成してくださっているという事実。それは、父なる神と、地上でわたしたちと共にいる聖霊との一つの業でもありましょう。わたしたちが誘惑に陥りそうになっている時。病気や老いの中で苦しむような時。誰か隣人との間に摩擦があり、あるいは暴力や危険の中にあるとき、全ての時に主は愛をもってわたしたちの魂が損なわれることのないように導いてくださっている。その、三位一体なる神の愛の連携の中でわたしたちはいつも生かされている。それがこの地上では、神の摂理、という形で働いているのです。そこにはサタンも介入できません。わたしたちが、主イエスを忘れる瞬間があったとしても。(残念ながらそんな瞬間というのはしょっちゅうですし、寝ているときなどはわたしたちは無意識の中にいます。)そのような、わたしたちが神様を忘れているときにも、わたしたちはいつも天の主イエスからは忘れられてはいないのです。私たちの内におられる聖霊がわたしたちの祈る時に、天上の主イエスと共にとりなしてくださっている。聖霊もまた、ともに「うめきをもって執り成して」くださっていると言います。(ロマ8章26節)そのように、信仰に生きるということは、もはやどんなときにも孤独ではないということです。主がわたしたちを天において深い愛をもって見つめてくださり、導いてくださっている。主の霊がいつもわたしたちの最善を知り、助けてくださる。そしてこの主なる神の導きの中で、わたしたちは主イエスがやがて再び来られる日。あるいはわたしたちの地上の生活の終わりの日まで、与えられた生活を全うして行くことができるのです。主イエスが、天に昇られ、今もわたしたちを愛の眼差しをもって見つめてくださっている。最善の道を歩めるようにとりなしてくださっている。その恵みを深く受け止めつつ、今週も聖霊に導かれて歩んでいきましょう。お祈りをいたします。
天の父なる神様。御子イエス・キリストが天に昇り、わたしたちの救いの道を拓いてくださいましたことを心より感謝いたします。あなたの執り成しによっていつもわたしたちが生かされていることを感謝いたします。親が子供を思うよりもはるかに、あなたは私たち一人一人の魂を愛し、導いてくださいます。その恵みの中でわたしたちもあなたを愛し従うことができますように。やがてわたしたちも天に帰るその日まで、あなたの栄光を表す者とならせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン