銀座教会
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銀座の鐘

「神の偉大な業」

説教集

更新日:2019年12月04日

2017年6月4日 聖霊降臨日主日礼拝説教:高橋牧師

使徒言行録2章1-13節

 復活の主イエスは、天に上げられるまでの40日間、聖霊が降ることについて予告していました。復活の主の予告通り、聖霊降臨の出来事は実現しました。本日の礼拝は、その聖霊降臨を記念するペンテコステ礼拝です。

 復活の主イエスは40日間に亘って、主イエスご自身が生きておられることをお示しになりました。弟子たちを集め食事を共にしました。そして、ある食事の席でこういう言葉でお命じになりました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒1:4-5)

 さらに、「イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。(使徒1:7-9)

 復活の主は、聖霊降臨を「父の約束」として語り、その日を待ちなさいと命じられていました。復活の主イエスと出会った人々は、聖霊降臨の出来事をどのようにして待ったでしょうか。聖霊降臨の直前、父の約束を何をして待っていたでしょうか。

 使徒言行録の1章によれば、主イエスが天に上げられた直後、彼らは、復活の証人を選ぶことを議論していました。

 主イエスが私に従いなさいと語って弟子にした弟子は12人でした。しかし、主イエスの十字架の直前、イスカリオテのユダが裏切り、自害し、弟子は11人になっていました。一人足りないままでした。聖霊降臨の直前、弟子達は、なぜ、復活の主の証人を選ぶことを思いついたのでしょうか。主イエスは天に上げられていないのです。「私に従いなさい」人間をとる漁師にしてあげようとお語り下さるお方はもう天に上げられていないのです。お命じ下さる方がいないのに欠けてしまったもう一人の弟子を選ぼうとしたのです。なぜでしょうか。天の上げられる直前の復活の主イエスの言葉を覚えていたからではないでしょうか。 使徒1:8の主イエスの地上での最後言葉が、聖霊降臨後の生きる方向を明確にしたのです。それは、本日、聖霊降臨日を迎える私たちの生き方にも深く関わる言葉です。 使徒1:8 「わたしの証人」になるのです。復活の証人になるのです。私たちはなぜ、生きているのでしょうか。何のために生きているのでしょうか。復活の証人として、復活の主を証しする者として生かされているのです。復活の主を証しするために生かされているのです。私たちの命の用い方は、聖霊降臨によって明確になりました。「地の果てにいたるまで、わたしの証人となる。」この声を最後に、主イエスは天に上げられ見えなくなったのです。この出来事の後、弟子達は、「復活の証人」についてと議論していました。議論しただけでなく「祈って」、「くじをひいて」、具体的に復活の証人を選ぼうと立ち上がりました。そして、マティアが加えられました。そして、復活の主の証人が立てられた時、聖霊降臨の約束が実現しました。

 本日、礼拝にて入会式が行われます。午後、病床洗礼式が行われようとしています。議論しました。祈りました。.くじはひいていないかもしれませんが、銀座教会の会員として加えられるということは、復活の証人になることです。そして、本日、一緒に聖餐に与り、復活の主の命をいただき、復活の主に赦されて、復活の主を証しする者にされるのです。

 復活の主を証しするのは、私たちが頑張って、自力で出来る事ではありません。父の約束の言葉通り、「あなた方の上に聖霊が降るとあなたがたは力を受ける。」聖霊が降るとという言葉を忘れてはなりません。私たちが証しをする、主イエスのことを生き生きと語ることが出来るのは、聖霊が降るからなのです。聖霊なる神さまが働いているからなのです。

 銀座教会に聖霊が降っているからこそ、御言葉が語られているのです。礼拝での奏楽、聖歌隊合唱、礼拝の係り。週日の正午礼拝の説教者が立てられています。教職だけでなく信徒の説教者が語ります。聖霊が働いているからにほかなりません。火曜日と木曜日の聖書講義と祈祷会を導く証しも聖霊なる神様が降られているからこそ、神さまの導きを語ることが出来るのです。教会学校も基礎講座も小羊ルームも聖書輪読会も(後失念している集会はないでしょうか)すべての集会において祈りに導かれて御言葉によって証しがなされていることの背景には、聖霊が降っているのです。私たちの信仰生活、教会生活、祈りの生活の土台として、聖霊降臨の出来事がいまなお主の恵みとして与えられているのです。だから、祈ることが出来るし、御言葉を語ることが出来るし、もっというならば、御言葉を聞くことが出来るのも聖霊の働きなのです。聖霊の働きは、最初のペンテコステだけで終わらないのです。くり返しくり返し、世界の教会に世界中の信仰者に大胆に臨んでおられるのです。

 先週、木曜日、教会員の飯久保瑞枝さんが逝去されました。最後まで一緒に寄り添って介護された飯久保知信さんから、妻の病気のために音楽が一番効果があることが分かり、高価な讃美歌演奏機をプレゼントし、二人で毎日讃美歌を歌って過ごしたことを聞きました。感動しました。ここに聖霊なる神が働いていおられると思いました。施設の中にあって自由に動ける体ではないが、讃美歌を歌い続けて、二人の信仰生活を聖霊なる神が働いておられたのです。お二人が復活の主の証人として主の御名を声高らかに賛美していたのです。この賛美は、病気を癒やすためだけではありません。賛美は祈りです。いつも隣人を愛する賛美です。主イエスへの信仰を表現する賛美です。天地万物の創造を仰ぐ賛美です。

 キリスト教会は、主イエス・キリストの復活後、50日目に聖霊降臨日を迎え、最初の教会が誕生しました。一人一人が復活の証人として証しする群れです。50日目を意味するペンテコステと呼ばれるようになりました。復活の証人とは、復活の主イエスの何を証しする人なのでしょうか。それは、十字架の主イエスがなぜ復活したのかが明らかになったのです。私たち人間の罪を身代わりとなって引き受け赦しをあたえたのが十字架であったことが、復活の主イエスを通して明らかになったのです。聖霊降臨によって、復活の主イエスの証人とされたということは、神さまに赦されて生きる恵みを与えられていることです。同時に、隣人を赦す力を与えられているということでもあるのです。

 あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。とあるように、隣人を赦す力を与えられているのです。具体的には、聖霊降臨直前の上の部屋での祈祷会の参加者を見るとよく分かるのです。十字架の出来事で主イエスを裏切った弟子達、最後まで主イエスの十字架の近くにいようとした婦人たち、主イエスの母や兄弟姉妹たちが心を一つにして祈っていたのです。もし私たちが主イエスの家族の一人だったら、弟子達と心を合わせて祈れるでしょうか。弟子達同士でも、お互いにいいたいこともいいわけもあったことでしょう。赦す神の力が与えられなければ実現出来ない奇跡の祈祷会です。この祈祷会に聖霊による力が与えられて、ペンテコステで力を与えられた祈祷会になりました。そして、この祈祷会の延長線上に私たちの礼拝や集会があるのです。同じ聖霊が働く恵みに与っているのです。

 聖霊はどのように働いたのでしょうか。なにが起こったのでしょうか。
2節「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」のです。風のような音、家中に響く音です。風も音も目には見えません。しかし、確かに聞こえます。確かに私たちに働きかけます。時には、私たちを慰め癒やしを与えます。聖霊なる神は風の音として私たちに働きかけるのです。.合唱や会衆賛美で慰められる、これが現代のペンテコステです。

 第二は炎です。 3節 炎のような舌が一人一人の上にとどまった。炎というのは、旧約聖書でモーセがホレブの山で燃えるしばの炎から神の声を聞いたように、神さまが人間にご自身を示し、人間と関わりを持とうとされる時に現れるものです。炎のような舌が一人一人に与えられたということは、復活の主が聖霊として一人一人に出会い、働きかけて下さったことを現しているのです。

 神さまから与えられた「舌」とは、復活の主の証人として語る力を与えられたということでしょう。赦された恵みを語る力を与えられたということです。新しい舌、新しい言葉を与えられたのです。聖書が解き明かされ、御言葉を語る力が与えられているのです。
5節から11節 当時の地中海世界の人々が知っていたあらゆる地域に及ぶ広さです。全く異なる様々な言葉が、聖霊の働きによって、新しい言葉が与えられたのです。

 この奇跡的な出来事の意味は、聖霊を信じれば語学の勉強をしなくても原語習得が出来るというようなことではありません。世界伝道はペンテコステで完成したのでもありません。色々な原語で語り出した人々は、7節にあるように、ガリラヤの田舎の漁師だったり普通の人々です。この奇跡の出来事は伝道の完成ではなく、世界への伝道の幕が開いた、新しい伝道の道が見えて来たことを意味しているのです。新しいイスラエルが十字架の主イエスと復活の主イエスを証しする言葉が与えられた出来事です。

 聖霊降臨の後、初代教会はローマ世界に多くの人々を遣わしました。東ローマの伝道と西ローマの伝道が進みました。476年、西ローマ帝国が滅亡し、西側に伝道した人々と東側に伝道した人々がそれぞれ独自の傾向をもつようになりました。東ローマ帝国は千年に亘る支配が続き、キリスト教の体制が確立しました。支配者を失った西側では、教会が社会秩序を回復するためにローマ教皇制を確立させます。初代教会は約千年かけて東西両教会は基本的な教会の教えを決定しました。しかし、聖像、聖画、聖霊を巡る対立から1054年東西の教会は分裂することになりました。聖霊なる神さまによって新しい言葉を与えられた教会が分裂したのです。しかも、聖霊を巡る理解の違いで袂を分かつことになってしまいました。それは、東方教会は「聖霊は父から来る」と主張しました。西方教会は「聖霊は父と子とから来る」とイエス・キリストと聖霊の関係を提示したのです。

 聖霊が教会を生み出し、伝道の力を与えたはずです。しかし、聖霊を巡る教会の理解の違いが教会を分裂させたのです。

 私たちはそのような歴史的事実を受け止めつつも、なお、使徒言行録の最初の聖霊降臨日に立ち帰りたいと思うのです。歴史的な教会の分裂を知りつつ、最初の教会に繋がることを確認することに意味があるのです。

 私たちは聖霊なる神を信じると信仰告白します。聖霊なる神の働きを信じる群れです。聖霊なる神が降る時、私たちは新しい力を受けて、神の偉大な業を聞くことが出来るのです。私たちは聖霊を受けて、神の偉大な業を語る者とされているのです。世界の多くの対立や言葉が通じない現実を知りつつ、神の偉大な業を語ること、聞くことを通して、復活の証人とされているのです。

 東西の教会が分裂してもそれぞれの教会に聖霊が注がれ、力を与えられて伝道が進んでいるのです。双方の教会において復活の主が証しされているのです。復活の主がほめたたえられているのです。言葉の違い、文化の違い、歴史の様々ないきさつを越えて、復活の証人とされる道が開かれているのです。

 私たちの祈り、私たちの賛美、私たちが聖書によって力を与えられる時、聖霊はいつも大胆に豊かに降るのです。更に大きな希望を与えられて祈りましょう、賛美しましょう、御言葉を聞きましょう、御言葉を語りましょう。

 いつか、一つでも多くの教会と聖餐の交わりが与えられる希望を失わずに、希望をもって復活の証人とされていることを感謝し、聖餐に与りましょう。
祈りましょう。