「祈りに養われた口で」
説教集
更新日:2026年06月27日
2026年6月28日(日) 聖霊降臨後第5主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 副牧師 岩田 真紗美
ルカによる福音書 4章5~8節
5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」8 イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
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「 『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(4:8)主イエスは、旧約聖書の『申命記』の御言葉(6:13)によって、悪魔を退けられました。ただ神のみを主とあがめ、忠実に仕える神の子のお姿は、ルカによる福音書では「イエスの系図」(3:23-38)のすぐ後で語られま1す。ルカは、主イエスが宣教を始められた時の年齢を「およそ30歳であった」と明らかにしてから、 「ヨセフの子と思われていたが」と前置きした上で「アダム」までの系譜を遡り「神に至る」(3:38)までを克明に著します。主イエスは「人の子」としてこの世に降られ、人間の子どものように父と母の間にお産まれになったのですが、同時に「神の子」であったことを著してから、ルカは本日の4章の「悪魔」による誘惑を主が退けられた事実を語るのです。ここが、同じ福音書記者であるマタイの4章での描かれ方と少し異なる点であると言えるのかも知れません。本日の聖書箇所は、内容だけ見れば丁度二週間前に語られたマタイ4章と同じように見えますが、福音書の記事の並べ方は、マタイとルカでは大きく違っていて、マタイは主イエスの洗礼の出来事の直後に悪魔の誘惑を受けられたと語ります。どちらの福音書も、神の御国の偉大さと、神の御力と栄光は、昔も今も永遠に続き、この世の隅々までを照らすものであることを証しします。しかし今日、敢えてルカを福音主義教会連合のスケジュールで用いているのは、悪魔の誘惑に微動だにしない神の御力が、あのイエスの系図が示すように「神の子」ならではのものであることを私たちにもう一度、教えるためではないでしょうか。そして、私たちはその方針に則って悪に打ち勝たれた主の十字架の恵みを「主の祈り」の学びの最後にもう一度確認したいのです。
主がお受けになったさまざまな誘惑は、私たちがどのような言葉をもっても語り尽くすことが出来ないほど大きな苦しみを伴うものでした。さらにこの誘惑を終えて悪魔は「時が来るまでイエスを離れた」(4:13)という賢明さを持つ事も見逃せません。今日のルカ4章の時点では、悪は完全に打ち滅ぼされず、ただ神の子から距離を置いただけでした。人間は弱いものですので、誰かと戦う場合は徹底的に戦ってしまいます。しかし福音書が語る悪魔はしたたかで、相手が自分より強いと認める時、一旦手を引くのです。そして、再度違った方向から、味方も大勢呼び集めて終いには「群衆」として主に立ち向かいます。結局この悪魔も、主イエスの十字架の出来事によって滅ぼされますが、主の十字架に示される神の深い憐れみと愛が無ければ、私たちは今、ここに集うたった一人をも、悪から救われ得なかったことを福音書はここで冷静に伝えます。悪の強さを示しながら、その誘惑に聖書の御言葉によって勝ち進んで行かれた主の地上でのご生涯を、福音書は神の子としての立場と人の子としての立場を丁寧に指し示しながら語るのです。そして主イエスは今日も、このような悪の力の恐ろしさを見誤って、それに容易に支配されやすい、ただ神にのみ忠実にお仕えする道から迷い出てしまいやすい、私たちの弱さを見ておられます。慈しみ深い眼差しで見ながら主は、まるで親鳥のように私たちの弱さを嘆き、父なる神に私たちのことを執り成し、誘惑に嵌まらないようにと祈ってくださっているのです。荒れ野における四十日の間、何も食べず、空腹を覚えられたままの御姿で、 「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」(4:4)と告げられた時の主の眼差しが、どれほど悲哀に満ちたものであったかと想います。この場面を聞く時教会は自ずと、あの十字架上のキリストの御苦しみと祈りを思い起こすのではないでしょうか。しかし悪魔は、今日の御言葉に拠れば容赦なくキリストをさらに高い所へ「引き上げる」(4:5)のです。足下に世界のすべての国々を見下ろした時、主イエスは非常に大きな憐れみを覚えられたのではないでしょうか。「この国々の一切の権力と繁栄」(4:6)は、悪魔の言った通り「わたし(悪魔)に任されている」(4:6)と思われるほど悲惨であったことでしょう。この箇所が記された当時のローマ帝国の支配を思い浮かべる時、それもまた筆舌尽くし難い思いでこの真実を書き遺したルカの信仰が、見えてまいります。人々は苦しみ、神の国とは懸け離れた価値観の中で、暗く不安な時代を生きていたのでありました。権力者が一方的に民を支配し、不正な裁判が行われ、神の民が働けば働くほど貧しくなっていくような、先の見えない罪の泥沼を、神の民は行ったり来たりしていました。主は、ご自分の肉体に与えられた激しい苦しみを嘆く間もなく、この国々に暮らす人々の救済を、父から委ねられた身であることを思い、荒れ野に於いても天の一点のみを見上げ祈られたことでありましょう。今日の御言葉を元に、本日は「主の祈り」の結びの「頌栄」とも呼ぶことができる一文をお聞きします。それは先ほど、この礼拝の初めにご一緒に祈りましたように、 「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」という一文です。この世に於いての事に限って語るなら、国も力も栄えも、悪なる者たちが最も欲しがるものであり、これらを欲しがる権力者がこれらのすべてを手にすれば恐ろしい現実が引き起こされることは、ローマ帝国の時代でも現代でも同じです。また、これらを手にしたことによって悪くなってしまう権力者もいるということは、人類の歴史が語るところです。
「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。」実はこの一文は、主イエスが弟子たちに教えてくださった「主の祈り」の原文である、ルカ 11章にもマタイ6章にも含まれていない一文です。初代教会が「主の祈り」を礼拝の中で唱える時に、次第に神への賛美の思いが燃え立つように掻き立てられて、思わず人々の口から迸り出た、主を讃える「頌栄」として、後から加えられたものだとも言われる一文なのです。マタイ福音書の伝える主イエスがお教えになった祈りの最後の一文、6章 13節の「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という御言葉の最後に「アーメン」と付け加えている「ウルガタ訳」と呼ばれる聖書はありますが、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」という一文については、私たちが用いている新共同訳聖書も、御言葉としては記していません。
「国と力と栄光は、とこしえにあなたのものだからです。」これが、この「頌栄」とも呼ばれる主の祈りの結びの一文の直訳です。なんと美しい、麗しい、神への賛美としての応答の言葉かと思います。当時の典礼(礼拝)を反映するものとして、後の時代にこの「頌栄」をも聖書の中に書き加えたいと願った人々がいて、有力な写本ではありませんが若干の写本が存在しているのも分かる気がするほど、麗しい賛美の言葉です。しかし、ある時代の熱狂的な誰かだけがこの一文を「頌栄」として突然、歌い出したわけではなく、旧新約聖書の御言葉と同じように、確かに聖霊の働きによって、礼拝に集うていた神の民の口から思わず溢れ出た賛美の言葉が「主の祈り」の結びに添えられて、この祈りの道が賛美へと向かったことを、礼拝そのものが記憶として遺しているということの素晴らしさにこそ、私たちは今日、目を注ぎたいと思います。聖霊に拠る麗しい導きと足取りを、私たちの礼拝は自分の小さな口や耳や手によって、証しし、神の民の記憶として祈り継いでいくのです。
祈りの最後の「アーメン」については、次の主日に集中してお聞きしますが、このように「主の祈り」は不思議な仕方で聖霊の自由な風に乗って、麗しい賛美の頌栄で結ばれる方向に向かいました。また、この「頌栄」のような一文が加えられたことによって、 「主の祈り」を「連祷」のように、繰り返し同じ言葉で祈り続けることが可能になりました。祈りはまさに、世界中のあらゆる信仰者によって公けの礼拝の中でも自由に神への賛美の口を開かせていったのです。それは自分勝手に、という意味での「自由」ではなく、聖霊の働きの自由にあやかって風の吹くままに思い思いに賛美を口から溢れさせるような、ただ神のみを主とあがめる自由です。
「祈りは神との会話である」と言われることがありますが、例えば私たちが誰かと会話をしているとします。その時、一方通行では、相手と親しく分かち合うことができません。主の祈りも同じなのです。神さまと親しく、父と子が隠れた秘密の小さな部屋で、お互いに安心しきってひそひそ話をするとします。「お父さん、あのね、お母さんはダメって言ってたけど、ぼくは犬が欲3しい」などと、幼い子どもがせがむように、私たちは無理難題と承知で、御国と力と栄光をすべてその御手の中におさめておられる完全な支配者、統治者、贖い主なる神さまに祈ります。「すべてがあなたのものだから、感謝を込めて渾身の『ありがとう』を伝えます。あなたに何でも伝えます、願います、祈るのです。」と最後の一文で、「主の祈り」は改めて神の御力の大きさに驚き、叫び、麗しい賛美をささげつつ、祈る理由も加えて神への信頼を告白するのです。
私たちが毎週の礼拝の中で、例えば銀座教会の場合ですと、讃詠545 番に始まって、最後は頌栄、祝祷…と一連の礼拝の流れがあるように、「主の祈り」も非常に自然に、しかも神学的な筋道の通った形でこの最後の「頌栄」部分を結びに組み入れて維持されながら、代々の教会の礼拝で受け継がれてきました。また同時に先ほど少し触れましたように、この祈りは何度でも繰り返し祈る「連祷」の形を取ることが出来るスタイルを、聖霊によって与えられています。さらに申しますと、不思議なことに何の原語で唱えても、大抵同じくらいの時間でこの祈りは唱え終わるのです。英語が母国語の海外の方々が、正午礼拝に集われる時によく英語で「主の祈り」を祈られますが、私が「国と力と栄えとは」と頌栄の部分を言い始める時、ほぼ同時刻で英語の「主の祈り」の「頌栄」の部分が聞こえることがあります。それは、本当に幸せな瞬間です。聖霊によって一つに結ばれた神の家族は、イエスさまから口伝えにいただいたこの大切な宝の祈りとも言える「主の祈り」を、声と心を合わせて祈り、言語の壁を超えて同じタイミングで同時に「アーメン!」と言えるのです。これは、主をほめたたえる舌を与えられた恵みを、心から喜ぶ瞬間でもあります。今日の御言葉の7節で悪魔は、「だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」と主イエスに言いました。しかし誕生したばかりの初代教会の礼拝者たちは、迫害の中で、隠れた場所で礼拝をおささげする時、主の祈りの最後に「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と心の底から叫ぶように祈ったのです。つまりこの世の悪魔に匹敵する、礼拝を妨げる者たちの手から自分たちは限りなく自由になって祈り、主イエスこそが「みんなあなたのものです」という言葉を受けるに相応しい拝まれるべき御方であると、信仰を告白しながら信仰を守り抜いてきたのです。主こそが、「この国の一切の権力と繁栄」(4:6)を既に御手に委ねられているお方であると信ずる信仰を、私たちも今日告白します。 「神の国も、神の御力も、神のみ栄えも、永遠にあなたのものだからです」と初代教会が臆することなく神に賛美をささげたように、私たちも聖徒たちの声に合わせて祈りましょう。礼拝の最後の「祝祷(祝福の祈り)」から新たな一週間へと私たちが主の御手によって押し出され、この世に派遣されていくのと同じように、主の祈りは賛歌を添えて結ばれ、どんな闇の中でも光の子として生きる道を証しする祈りです。この主を賛美する頌栄の言葉は『詩編』の中の「賛歌」にも頻繁に出てくるものですから、まさに神の民と共に歩んだ「祈り」の故郷の歌の香りを放つものであるとも言えるでしょう。
「主の祈り」は主イエスが一言ずつ、親鳥が鄙に大きな餌を嚙み砕いて与えるように、弟子たちに主が、人間の頭では信じ難い大いなる神の愛の深さと広さ、その御支配の偉大さと高さを教えた祈りです。その祈りによって魂を養われた神の子らはやがて、豊かに成長し、終わりの時に至るまで、麗しい言葉で主を賛美し続けていきます。私たちもその弟子の群れの一員です。共に神の祈りに声を合わせる喜びを味わいながら、礼拝生活を守り続けたいと願います。 (祈祷)