「アーメンとは」
説教集
更新日:2026年07月04日
今日の主題は「アーメン」です。子供の頃、私の両親は今日は祈祷会だから早く寝なさいといって、午後7時には寝かされました。普段は9時でしたのでそう簡単には眠れません。寝室から引き戸を開ければ礼拝堂でしたから、祈祷会の声がよく聞こえます。姉からは今日は祈祷会だから静かにしなさいと釘を刺されていましたので、静かに聞こえてくる音を聞くしかありません。そのうちに、アーメン、アーメン、と繰り返し、聞こえてきます。
6歳くらいだったでしょうか。日曜日の礼拝は最後の祝祷のアーメンが礼拝の終わることの合図でしたが、水曜日の夜のアーメンではそう簡単には終わらないと思ったことをよく覚えています。
本日は 4月から 12 週間に亘って学び続けている主の祈りの最終回です。次週からは使徒信条に入ります。聖書を通して、私たちの信仰生活において「アーメン」と祈ることについて御言葉に聴きたいと思います。
私たちは主の祈りの最後に「アーメン」と唱和します。教会では祈るたびにその最後にはアーメンと声を合わせて祈ります。誰が祈っても、祈りの最後に祈りの内容にかかわらず会衆全員が「アーメン」と唱えます。特に祝祷の最後に会衆席の皆さんが声をそろえて大きな声でアーメンと唱和すると力が与えられ励まされます。
このアーメンとは、元来ヘブライ語です。ギリシャ語の翻訳でもアーメンのままです。その意味は「たしかに」、「真実に」「そのようになりますように」と説明しています。アーメンは日本語でも英語でも韓国語でもインドネシア語でも世界中のキリスト教会では「アーメン」のままで、各国の言葉に翻訳されないのです。なぜでしょうか。
アーメンが各国の言葉に翻訳されず、そのまま用いることの理由を聞いたことがあります。それは、このアーメンという言葉に「主イエスの声が残されているからだ」という説明です。なるほどと思いました。日本においてもアーメンと主イエスが祈った言葉のままにしているのは、アーメンと私たちが唱えるとき、私たちの口から出る言葉であるとともに主イエスが祈るアーメンの声が聴こえてくるというのです。あたかも主イエスが横にいて一緒に祈っておられるように、主イエスが唱和してくださるアーメンという声を聞きながら、私たちも主イエスと共にアーメンと唱えているというのです。これが信仰による理解です。私たちはアーメンと唱えることによって、主イエスの声を聞き、神と結びあわされていることを思わせられます。
旧約聖書申命記には、モーセによって民に律法が授けられた時、「「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。」(申命記 27章 26 節)と律法を重んじてアーメンと唱和することが求められています。呪いの反対は祝福ですから、律法によってアーメンと聴き従うことこそが神の祝福に与ることなのです。
旧約聖書においてアーメンは、神殿における祭儀でのみ用いられていました。アーメンは、祭儀を行う際に、祭司が神のご意志であると確認して、アーメンと唱えていました。詩編の中には、詩文の最後に頌栄とアーメンで閉じられている場合が少なくありません。
新約聖書では、主イエス・キリストが祈りや賛美の最後ではなく、御言葉を語る最初にまずアーメン、アーメンと唱えてから語られています。例えば、マタイによる福音書 5 章18節「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」この「はっきり言っておく」はギリシャ語の「アーメン」です。主イエスが語るアーメンは「はっきり言っておく」とか「まことに」と翻訳されています。このように、主イエスが大事なことを教えるときは、最後ではなく始めに「アーメン」と言われました。福音書において主イエスがアーメンと語り始めたことが100 回以上記されています。主イエスがアーメンと語り始めて、私たちを神の言葉へ結び合わせ、祝福してくださっているのです。しかし、だからと言って主イエスは祈りの最後にアーメンと唱和していなかったとはいえないと思います。そうではなく、主イエスは弟子たちとともに旧約聖書の伝統を重んじ祈りの最後に、確かにその通りですと同意とともに真実の告白としてアーメンと唱和してに違いないと思います。ローマの信徒への手紙には11章36節「栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」とあります。使徒パウロの手紙を通して初代教会が祈りの最後にはアーメンと唱和していたことが分かります。
私たちが心からアーメンというとき、その祈りが真実であることを表現しています。宗教改革者マルティン・ルターは「アーメンは疑いをはさまない信仰のことばだ」と語りました。私たちは誰が祈ってもその最後に声を出して応答し、その祈りの言葉に同意するようにアーメンと声を出します。祈りを閉じるとき、この祈りが確かに聞き入れられると信じて疑わずに、感謝して祈りを終える気持ちを込めてアーメンと唱和します。
それでは、誰のどんな祈りでもアーメンと唱和しなければならないのでしょうか。主の祈りは主イエスが教えた祈りですから、疑わずに確信してアーメンと祈ることができますが、いろいろな人が自由に祈るときはどうでしょうか。その自由な祈りの内容にどうも簡単には同意できないように感じた場合、どうしたらよいでしょうか。アーメンと同意しなくてもよいでしょうか。小さい声でアーメンとうやむやに祈ってしまえばよいのでしょうか。このような質問を受けたことが何度もあります。以前は、アーメンといえないことがあったら無理しなくてよいのではと答えたことも思い出します。しかし、主イエス以外の祈りの最後に、そのとき同意できない場合でも、主イエスを信頼して、アーメンと祈ることが出来ると教えてもらいました。どんな祈りでも私たちが受け入れるかどうかよりも、その前に主イエスが受けとめてくださっていること、主イエスを通して祈ることで自分の考えで人の祈りを判断するのではなく、主イエスにゆだねることが大切であることに気付きを与えられました。たとえその祈りが理不尽な祈りだと思っても、主イエス・キリストの御名によって祈っているのですから、祈りを聞いてくださる主イエスを信頼して、アーメンと唱和し、主イエスにすべてをゆだねて祈ることが大切ではないかと思うのです。
この問題は、祈りの言葉が真実であるということの根拠は、私たち自身の確信からくるのではないということです。主の祈りは真剣に祈るけれど、隣人の自由な祈りは真剣に祈らないなどということにならないようにしたいのです。私たちの心のうめきであっても、隣人の祈りでも、主イエスに委ねるのです。祈りは、主の祈りを土台としています。祈りの真実と確信は、私たち自身の熱心や経験や判断ではなく、神に信頼し、主イエスの取り扱いにすべてを委ねて、熱心に祈り続けたいと願います。
ローマの信徒への手紙 8 章 26 節「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」神が祈りを求めてくださり、神が私たちの祈りを執り成してくださることを信頼して祈りたいと願います。私たちのつたない祈りを主イエスがお聞きくださるのです。これは、どんなに素晴らしいことでしょうか。誰も私の話など聞いてくれないというぼやきを聞くことがあります。ならば、祈りましょう。主イエスは私たちのうめきでさえ聞いてくださいます。私たちの祈りを真実な祈りへと導いてくださいます。祈り続けるとき、主イエスによって、祈る言葉が変えられていきます。私たちの至らなさを恐れることなく、神を信頼して、安心してアーメンと共に祈るのです。私たちの自由な祈り、たとえ不信仰な祈りであっても、神の真実の中に祈りの根拠があることを覚えて、アーメンと祈ることが出来るのです。ですから私たちがアーメンと唱和して祈ることは、神が真実な方であるという信仰の告白でもあるのです。神の真実、神の確かさにより頼んでいるからこそ、どんなときにも真剣に熱心にアーメンと祈るのです。
本日の御言葉はコリント教会の人々がパウロに対して訪問の約束はどうなっているのかと厳しく問われたことに対する返信です。パウロに対して「然り」なのか「否」なのか、すなわち「本当」なのか「うそ」なのか、はっきりしなければ信用できないと問うているのです。しかし、パウロはコリント教会へ何度も返信の手紙を書いて、教会を愛し、一人一人を大事にしていることを伝えています。そして、パウロは主イエス・キリストは真実なお方であることをコリント教会に伝えています。神の約束は必ず果たされる、神の約束が果たされるように「アーメン」と祈ってほしいと書き記しているのです。パウロがコリントの教会に願っているのは、忍耐だけでなく、主イエスの声を聴いてほしい、主イエスと共に福音伝道のために祈ってほしいということなのです。
私たちの信仰生活は、神の言葉と神の御業の真理に対して、心からなる感謝を持ってアーメンと祈り、ますます神を信頼するのです。アーメンは感謝の応答です。アーメンは信頼の応答です。主イエスは十字架の直前、ゲツセマネにおいて弟子たちに命じました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い」 (マタイ 26 章 41 節)とお語りになりました。主イエスのこの言葉を心に刻み、主の祈りを土台として、自由に大胆に祈り続ける者となりましょう。