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銀座の鐘

「イエスを主と呼ぶ」

説教集

更新日:2026年08月08日

2026年8月9日(日)聖霊降臨後第11主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満

フィリピの信徒への手紙2章6~11節

1, イエスが主であるということ
 本日は、使徒信条の「我らの主、イエス・キリストを信ず」という告白の意味を共に分かち合っていきたいと思います。先週わたしたちは、イエス・キリストが、神の独り子であるということを聞いてまいりました。今週は、そのイエスが主であるということを学んでまいります。イエスが主であるとはどういうことでしょうか。主とは、主人、主君ということであります。わたしたちがイエスを主と呼びまつるときには、イエスをわたしたちの人生の主人。わたしたちはあなたに従いますと告白していることになります。そのように告白するとき、わたしたちは主の羊となって、主に養われるのであります。詩編の23編にこのようにあります。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」こう詩人が告白する時、主とは、わたしたちの人生を導いてくださる方であり、この方に聞き従うとき、わたしたちは何も欠けることがなくなる。なぜなら、青草の原に休ませてくださり、憩いの水のほとりに伴わせてくださり、魂を生き返らせてくださる」と告白するからです。詩人が言うように、主がわたしたちの羊飼いであるならば、わたしたちはその牧場の羊であるということです。わたしたちは皆、神の羊であります。それは神の恵みの御支配に移されたということを現しています。その恵みの支配とは、死と罪の力の中で苦しみ、不安の中にいるわたしたちを、十字架の救いの下に置いてくださったということであります。わたしたちは、その魂を、生きているときも死ぬ時にも、神の御支配の下に置かれたということです。
 プロテスタント教会が代々大切にしてきた信仰問答にハイデルベルク信仰問答があります。その第一問がとても有名であり、また信じることの喜びを端的に表しておりますので、ここで紹介したいと思います。

問一「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」
答 「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方はご自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ神の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そうしてまた、御自分の聖霊により わたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。」

 このハイデルベルク信仰問答の第一問の答えの中に、わたしたちの信仰によって与えられる慰めの全てが詰まっていると言ってよいと思います。わたしたちがイエスを主と告白する時、私たちがイエスのものであるということ。それは、わたしたちが生きている時だけでなく、死ぬ時にも、真実の救い主であるイエス・キリストのものとされたということ。これはわたしたちの心にしっかりととどめておきたい信仰です。世の中の慰めと言えるものは非常にたくさんあるでしょう。でも、その慰めは、死んでからも持って行くことができるような慰めでしょうか。死んでからも持って行くことができるような慰めなどというものは、この世が提供するものの中には一つもないということがわかります。たとえ愛し合って結婚しても、最愛の妻や夫でさえも、死ぬ時には別れなければならないのです。しかし、イエスがわたしたちの主であるということは、わたしたちが死ぬ時にも私たちの魂を御自身のものとしてしっかりとつかんでくださっている。だからわたしたちは死んでからどこに行くのか。死ぬと共に全てが終わってしまうのではないのだということ。神様の命の中に。新しい命に生きるものとされるのだということを感謝と希望をもって知らされている。それこそがわたしたちの慰めなのです。そしてわたしたちの人生の基盤となるのです。わたしたちが誰かの支配のもとにあり、自分のものではないということは、自然のままの人間には耐えがたいことであるかもしれません。人間とはだれでも自由に生きたいと願うものだからです。誰かの監視の下に自由を奪われて生きることなんて誰もがまっぴらであります。けれども、イエスがわたしたちの主であってくださるというとき、それは監視社会の中で自由を奪われて奴隷やロボットのように生きなければならないということではありません。そうではなく主イエスが私たちの心の内に来てくださって初めて人間は本当の自由を得るのであります。
 ある詩人が語った言葉で「いつも心に太陽を」などという言葉がありましたけれども、その意味は、勇気を失わず、希望と明るい心を失わないで生きよう、という意味であります。しかしこれは穿って言えばただの理想論であるかもしれません。人生には希望をもつことができないほどに深い悲しみが訪れることがある。勇気を持てないほどに、恐ろしいことがある。心の中の太陽は消えることがあると思う。けれども私たちはこう言うことができるのです。「いつも心に主イエスを」と。
 なぜならわたしたちにとって主イエスは、単なる理想ではないからです。わたしたちの心が造った希望とか理想なのではなく、聖霊において私たちの内に確かに来てくださっている現実の恵みであるからです。聖霊において神の愛が私たちの内にいつもあるということ。だからこそわたしたちは祈りへと導かれるし、祈る言葉が見つからなくても、主の霊が私たちの祈りをとりなしてくださり、天を見上げて、永遠の命の希望。今を生きる希望。神が必要を与えてくださり、備えをくださるという摂理への信頼に生きることができる。わたしたちはいつも主イエスの羊であり、羊飼いである主イエスは私たちを愛し、大切にしてくださっている。そのような主人。飼い主がいる羊として、わたしたちはこの地上を他の羊たちと共に導かれながら歩むのです。
 わたしたちがイエスを主と呼びまつることは、わたしたちの思いこみなどではありません。それは神様の恵みによるものです。コリントの信徒への手紙一の12章3節にこのようにあります。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」2000年前のイスラエルのナザレの村に生活し、ガリラヤで伝道をされたイエスという方が、時代を越えて、場所を越えて、今も生きておられ、天においてわたしたちの主となって愛をもって守ってくださっていること。聖霊を通して私たちと共に生きてくださっているということ。これはわたしたちの常識においては考えられないことです。死んだ人がよみがえるということも常識では考えられないことです。しかしそれが事実であり、今も私たちの内に来てくださっている。イエスが私たちの主であるということを信じて、本当に慰められるのは、私たちの心に聖霊が来てくださっているということです。
 神様の存在を科学的に、証明することはできないと言われています。しかしわたしたちの心に、主イエスが本当に来てくださっているということは信仰における確かな事実であります。信仰においてこそ受け止めるものであるからです。そのとき、神様と私たちの内には確かな関係ができる。わたしたちはイエスを主と呼びまつり、天において神の御子である主イエスが、わが僕よと語りかけてくださっている。そのような関係において、わたしたちは確かに神の愛を知らされているのであります。主イエスを愛し、主に従うのです。

2, 人間となられた神の御子イエス
 今日、この信仰告白を学ぶために与えられた聖書の箇所は、フィリピの信徒への手紙の2章6節から11節です。この箇所はキリスト讃歌と呼ばれています。この箇所では、主イエスは神の身分でありながら、それに固執せずに人間となられたとあります。神の身分であられた。神のお独り子であられた。永遠の昔から、この世界の造られる前から主イエスは父なる神と共におられました。三位一体の第二位格と言われる、子なる神であられた。
 その神が、被造物である人間と同じ姿を取られたのです。それがクリスマスの出来事であります。なぜ神が、人間にならなければならなかったのか。それほどに、神は人間を尊ばれたからです。罪に堕ちた人間が再び神の御支配の下に立ち、その造られた本来の生き方を歩みなおすために。子なる神が私たちのところまで降りてきてくださった。そして私たち罪人の代わりに、信仰の歩みを完全に歩みとおしてくださり、父なる神様に従順に、神の僕として従順に生きてくださいました。そのような完全に正しく、全く罪の汚れなく、清く聖なる神のお独り子だけしか、人類の罪を全て身に受けて、罪を贖うことができないからです。他の誰も、人類の罪の身代わりとはなれません。なぜなら人間は等しく、すでに罪に染まっているからです。
 主イエスただお一人だけが、罪なき人間として、この地上に来られたのです。その主イエスだからこそ、罪のためのいけにえの子羊として十字架にささげられたのです。この十字架による贖いを通して、私たち人類の罪を取り除いてくださった。この主イエスの十字架の御業を信じるときわたしたちは誰であっても等しく救われるのであります。

 主イエスがわたしたち人間を贖うために、神の身分を捨てて人間となってくださった。それは人間が蟻になるとか、ノミになるような程のことではないでしょうか。そのようなへりくだりは、ありえないほどのへりくだりであるということに深く思いをいたしたいのです。しかも、十字架の死とその不安だけでなく主イエスの全生涯。生まれてから十字架に釘を打たれて身を槍で突かれる痛み。肌を露出される恥。多くの人々に誤解され侮辱される精神的な苦しみ。これらはわたしたちがその生涯で受ける人間としての全ての苦しみを神が受けてくださったということであります。神の御子イエスはわたしたちが救われるために、わたしたちの苦しみ悩みよりもさらに下に降りてくださったのです。それゆえにわたしたちはどんな苦しみや悩みにおいても、そこにもイエスが来てくださっていることを信頼し感謝できるのです。十字架において人間としての死を。罪人としての死を死んでくださった主イエスは、天の父によってよみがえり、高く上げられました。主イエスに与えられた御名の権威は地上のどのような権威よりもはるかに偉大な権威です。全ての権威の頂点にイエスという御名があるのです。この王の中の王である方の御名がイエス・キリストであります。「全ての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」これはやがてくる終わりの日の出来事をあらわしているのかもしれません。死んだ者も生きている者も、主イエスをこの世界の救い主。審判者。統治者。王として知るときがきます。そのとき、全ての舌がイエス・キリストこそが真の主であると告白するのです。そして天の父を褒めたたえるのです。そのような日が来ることを私たちは信じて、その恵みの先取りとして礼拝をささげております。わたしたちがイエス・キリストを主と呼びまつるとき、心からの讃美と、感謝と、喜びをもって、この御名に栄光を帰していきたいのです。私たちは自分を誇るのではなく、この主イエスの御名をこそ誇る。偉大なる神が、人となってこの地上に来てくださったのです。最後にペトロが使徒言行録で議会で取り調べを受けた時に語った御言葉をもって終わります。
「ほかのだれによっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
お祈りをいたします。

 天の父なる神様。わたしたちはイエスを主と告白します。この告白をするときわたしたちはまことに幸せであります。わたしたちがあなたの羊であり、あなたの恵みの中に。救いの中に、御守りの中にあることを感謝し讃美しているからです。あなたこそがわたしたちの羊飼いです。わたしたちをいこいのみぎわに導いてくださる方です。どうかこれからもわたしたちがあなたの御名をほめたたえ、喜びをもってあなたを証ししていくことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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