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銀座の鐘

「キリスト者の定義」

説教集

更新日:2026年08月15日

2026年8月16日(日)聖霊降臨後第12主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

ローマの信徒への手紙8章9~11節

 わたしたちキリスト信仰者は、「キリスト者」と呼ばれ、自分でも「わたしはキリスト者である」と言います。使徒言行録 11 章によりますと、主イエスにあって神を信じる者たちが「キリスト者」と呼ばれるようになったのは、アンティオキア教会においてであったと言われます。それまでは「聖なる者たち」とか、「この道の者」と言われていました。それでは、キリスト者とどういう人で、どういう人生を生きるでしょうか。色々な言い方が可能だと思いますが、「キリスト者」は、「主イエス・キリストにある人」であり、イエス・キリストをわが主と信じ、その恵みと力のもと、その影響力の中で生かされている人です。ただし、キリスト者とされたのは、誰の場合も、自分の取柄に拠ってではありません。実際の生活も、心の中でも、いろいろな欠けのある者です。不十分な者です。しかし主イエス・キリストにある神の憐みによって、その救いの御業によって、罪を赦され、「主にあるもの」とされ、「主のもの」とされました。そして主イエスにあって神を信じ、「父なる神よ」と祈る者にされています。それは「神の子」とされたからです。もちろんこれも誰一人、自分の力や努力でそうされた人はいません。主イエスを「わが主」と信じ、神を「天の父よ」と呼ぶ、それができるのは、神の霊、聖霊によってだと言われます。
 お読みいただいた9節には、「神の霊」はまた「キリストの霊」とも言われています。それで、わたしたちが「キリストにある」ものにされたのは、神の霊、キリストの霊によったことであって、つまりは「霊にあるもの」にされたということでもあります。ここに、「霊の支配下にいます」とあるのは、原文では「霊にある」という言葉です。「キリストにある」人は、誰でも一人残らず、「キリストの霊にある者」にされています。「エン・クリストー」(キリストにある)のであれば、「エン・プノイマティ」(霊にある)わけです。
 このキリスト者の定義、キリスト者とはこういう者だという表現は、繰り返しになりますが、特段優れたキリスト者について言われるのでなく、すべてのキリスト者がそうです。キリスト者であれば、信仰の薄いキリスト者であれ、弱いキリスト者であれ、みな主イエスにあって、主のものとされ、神の子とされ、神に向かって父よと祈ります。若いキリスト者も、高齢のキリスト者も変わりはありません。それは霊によって、そうすることができているので、キリスト者は皆、例外なく「キリストにあり」、同時に「霊にある」わけです。
  9 節の主文章は、「霊にある」ので、もはや「肉にある」のではない、と言います。「肉でなく、霊にある、霊の支配下にいる」と言われます。「霊にある」という状態は、さらに別の表現でも語られ、「神の霊があなたがたの内に宿っている」と言われ、「キリストの霊を持つ」とも言われます。わたしたちが「霊にある」のは、キリストの霊を持って、それを身に帯びているというのですが、それはまた神の霊が「あなたがたの内に宿っている」のでもあると言うわけです。
 霊がわたしたちの内に宿るのは、「聖霊の内住」と言われます。キリスト者であれば、誰でも、聖霊の内住を受けて、「聖霊の宮」とされているわけです。何か異様なことが言われているわけではありません。これは具体的には、霊の賜物を身に帯びて信仰を抱いていることです。霊の賜物は、神への信仰であり、神によっての希望でもあり、また神と人への愛でもります。さらに平和であり、喜びであり、命です。時には霊の賜物は、「神の武具」とも言われ、信仰の盾、救いの兜、御言葉の剣と言われます。そうした霊の賜物を身に帯び、信仰生活を生きているのが、キリスト者であり、それゆえ、すべてのキリスト者は、例外なく「霊にある」と言われるわけです。
 ここにはさらに二つの仕方で、わたしたちに対する聖霊の働きが記されます。一つは10節で、「キリストがあなた方の内におられるなら」とありますが、その意味はキリストの霊がわたしたちの内におられるからということです。「体は罪によって死んでいても」、つまり、罪の残余によって死んだ状態にあっても、「霊は義によって命となっています」。霊にある者とされ、肉と罪との支配から解放されています。罪はすでに主イエスの十字架における贖いの出来事の中で、神によって断罪され、無力化されています。ただ、わたしたちの信仰生活には、無力化された罪がなお残余として働いていて、わたしたちの生活の体が死んだ状態になる。体は死ぬべき体になっています。しかしその状態でも、「霊は義によって命となっています」。義によって命となっているといわれる霊とは、キリストの贖いと復活によって義とされ、命とされたわたしたち自身のことです。聖霊はわたしたちの霊、つまりわたしたちの信じる心、信仰生活を、義によって命として生かしてくださる。信仰生活が有罪とされて、見捨てられたり、死んだ状態の中に放棄されることはありません。どんなに不十分な信仰生活であっても、「霊にある」のであって、それゆえ「義によって命」とされ、生き返らされています。体は死んだ状態でも、今すでに義とされて、新しい命に生かされている。それがキリストにあり、霊にある「キリスト者」の現在の姿です。
 そこにもう一つの御霊の働きが、語られます。わたしたちキリスト者は誰でも、主イエスにあって、そしてその霊にあって、今現在、義によって霊、つまり信じる心、あるいは信仰が、生かされています。ですが、それだけでなく、もう一つ、将来、神は、御自身の霊によって「わたしたちの死ぬべき体をも生かしてくださる」。「生かしてくさるでしょう」(11 節)とあるのは、未来形で、将来のこととして書かれているわけです。いますでに霊は、つまり信仰生活は生かされながら、将来、死ぬべき体も生かされます。
 この「生かしてくださる」という動詞は、非常に強い表現の言葉です。「命」という言葉と「創造する・実行する」という言葉、二つの言葉が合わされて、命の創造、死からの生き返らし、生き生きと生かす表現です。御霊はそのように働かれるといいます。繰り返しますが、キリスト者は誰でもです。若いキリスト者も、高齢のキリスト者もです。どのキリスト者にとっても、主にある者は霊にあるのであり、その霊は命の霊、創造的に生かす霊であり、死人の中から復活させる命の霊力です。
 それで、11 節は「キリストを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら」と言い、さらに繰り返し、「キリストを死者の中から復活させた方は、その霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」と言います。今、現在、聖霊は、キリストにあり、また聖霊にあるわたしたちを、義によって命にし、私たちの霊を生かしてくださっています。しかし将来、神は、わたしたちの死ぬべき体をも生き返らせ、生き生きと生かしてくださる。キリスト者は二重の命に生かされています。今はわたしたちの霊が、そして将来、体も。「あなたがたの死ぬはずの体をも」とあります。「をも」とあるのはわたしたちの霊をすでに生かしてくださっている方が、わたしたちの「体をも」生かす。しかも「キリストを死者の中から復活させた方」が、「あなたがたの死ぬはずの体をも」と言います。つまりキリストが復活なさったように、わたしたちの死ぬべき体もキリストと共なる復活の命に生かされます。キリスト者とは、今は信仰に生き、将来は死ぬべき体も、主イエスの復活のように生き返らされる者たちです。
 いますでにわたしたちは生かされています。しかしそれだけでない。やがて将来、わたしたちの体、死すべき体、傷み、傷つき、病み、衰える体もまた、生き返らされ、復活のキリストの栄光の体にあずからせられます。「体は主のために」ありますが、「主は体のため」(コリント一6・13)とも言われます。
 霊にあって、今すでに義によって生かされているのは、やがて、キリストと同じように死に打ち勝った栄光の体に復活させられる保障・手付金と言えるでしょう。将来の体の生き返らしは、栄光であり、完成であり、新しい天と新しい地における神と共にある永遠の命です。主にあって先に眠りについた者との再会も含まれるでしょう。ヨーロッパの教会堂に、天井にその完成の絵画を描こうとしたものが多くあります。各人が聖書を持たず、また読めなかった時代、絵による説教を描いたわけです。霊にあって生かされている命は、今生かされているだけではありません。復活のキリストの栄光の体にあずかる希望を持って生かされ、今生きているのは、わたしたちの表現を越えた、復活のキリストの栄光の体にあずかる、輝かしい完成の希望に生きているのです。

 天の父なる神様、あなたは溢れ出る恵みをもって、わたしどもを、主キリストにある者にしてくださり、御霊にある者にしてくださっておりますことを、心から感謝します。御霊にあって今現在、義によって命とされ、また終わりの時には、あなたが、御霊によってわたしどもの死ぬべき体をも主キリストの栄光の体にあずからせて、新しく生かしてくださることを信じて、感謝いたします。聖霊にある信仰の生活を今現在、感謝と喜びのうちに生きて、終りの時の聖霊による体の甦りという、大きな恵みを信じ、受け容れ、確信することができますように。そして信仰による希望と喜びに生きて、あなたの福音を証し、伝える者となれますように、貴き御子・主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン。

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